2.新婚生活

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 電車で35分、徒歩10分の出勤時間が、電車で7分、徒歩10分になったのはなるべく遅くまで寝ていたいみちるにとっては非常にありがたい。有給明けの職場はいつも通りなようで、反面少しだけ違和感があるような気がしてしまう。 「おはようございます」 「あ、おはよう井崎ちゃん」 「有給ありがとうございました」  隣のデスクの先輩、畠悠香(はたけ ゆうか)に軽く頭を下げると、畠はいいのいいのとひらひら手を振った。 「引越しだったんだって? 落ち着いた?」 「はい。だいぶ片付きました」  デスクでメールのチェックを軽くしてからちらりと時計を見ると、まだ始業まで時間がありそうだった。畠も始業時間まで仕事をする気がないようでデスクでパンを食べているので、みちるもコンビニで買ったコーヒーと引き出しに入れているチョコレートを手にする。出勤したらすぐに仕事をしろと言ってくる部署もあるようだが、今の所みちるの部署はそういった雰囲気がないのが助かっている。 「引越しってエネルギーいるよねぇ。どの辺になったの?」  来た。とみちるは身構える。勿論畠は雑談の一環で聞いてきてくれているだけなのだが、みちるからしたら死活問題だ。念の為考えておいた言い訳を、さも何事もないように舌に乗せる。 「場所は全然変わらないんです。最寄りは一駅変わったくらいで」 「そうなの? どうせなら近くに住めばよかったのに」 「この辺の家賃、高いじゃないですか」 「まぁね」  細かい住所はみちるがうっかり口に出さなければ知られる事はないので、吐ける嘘である。乗る電車の方向は幸いにも同じなので、その辺も大丈夫だ。 「でも何で突然引越しなの? そんな事言ってなかったよねぇ」 「いや、あの〜。ルームシェアをする事になりまして」 「うそ、彼氏?! 早く言ってよ!」  これも半分本当の嘘だ。そして絶対こう来ると思ったので、みちるは首を振る。 「違うんですよ。親戚の子なんです。こっちに来るの初めてらしくて心配だって言うので本当に急遽する事になって」 「へぇそうなんだ。面倒見いいねぇ」  現状本当に親戚の子とのルームシェアのようなものなので、何か追求されても躱せそうな嘘はこれに限る。とみちるは内心グッと拳を握った。みちるの思惑通り畠はそのまま追求して来なかったので、恐らく彼女の中で独身女性とルームシェアする親戚=上京したての女の子、という方程式が出来上がったのだろう。そうなればあとはみちるが何も言う必要はない。言わぬが花、というやつである。  正直な所、騙している気がして気が引けて仕方がないが真実をつまびらかに出来るわけがない。となればボロが出ない程度の情報で納得してもらうしかないのだ。  そこからは仕事が忙しくて、畠と雑談する暇もなかった。昼食も別々の時間に手早く取り、月末の処理に向けてあれこれと準備している間にあっという間に定時が来た。忙しい方が過ぎる時間が早くて良いけれど、息つく暇もないとある程度仕事を片付け終わった後、一気に疲れがくる。みちるは先ほどまで感じなかった眼精疲労と肩こりを気を抜いた途端に浴びながら、デスクでため息を吐いた。 「終わった?」 「終わりました」  畠が朝よりもくすんだ顔色で聞いてきてくれたので同じくくすんだ声で返すと、彼女は大きく伸びをした。よく見ると事務所に残ってる人数も大分まばらになっている。終業ギリギリで仕事を押し付けて帰っていった営業に腹立たしさを感じながら荷物をまとめる。 「井崎ちゃん今日夕飯は?」 「何も決めてないです」 「ならちょうどよかった」  とは言いつつも、みちるの頭の片隅には槙人が浮かんだ。みちるが慌ただしく家を出る頃はまだ家にいる気配がしたので、今日はオフなのかもしれない。  槙人くんは夕飯、どうするんだろう。  一瞬そう思ったけれど、畠が雰囲気で夕飯に誘ってくれそうなのを感じとったみちるは、きっと彼も自分で食べるだろうと考え直し、彼女の誘いに応じた。まっすぐ帰るよりも今日仕事を押し付けてきた営業の愚痴を畠にも肩代わりして欲しかったのである。一応、といった具合にみちるが槙人に夕飯を食べて帰る旨を連絡した時間は、ちょうど20時30分を過ぎた所だった。  各々めいめいに上司の愚痴を吐き出し、そもそも会社の指示系統が万全ではないなどという規模の大きい事を言うだけ言うと、不思議と心が軽くなった。明日に影響しない程度の飲酒は、生ぬるい風ですらなんとなく心地よく感じさせてくれる。駅で畠と別れて電車に乗ったみちるはそこでようやく自身のスマホを見た。畠と話すのに夢中で、スマホの存在自体ほぼ忘れていたのだ。  電源ボタンを押すと、通知が一件来ていた。見慣れないアイコンは確か、槙人のものである。 『わかりました。気をつけて帰ってきてください』  簡素なメッセージはどうやらみちるがメッセージを送った30分後、21時に送られて来ていたようだった。現在の時刻は23時30分。あと10分程度で自宅に着くことを考えたら、連絡しなくていいかと思い至り、みちるはほんの数分ぼんやりしてから電車を降りた。慣れない駅の慣れない夜は、なんとなく落ち着かない。 「ただいま……」  玄関の鍵を静かに開けて、さながら他人の家に侵入するかのようにこっそりと中へ忍び込む。いつも履いてる槙人の靴があったので家にはいるようだ。深夜でもお構いなしに仕事がある槙人がこの時間家にいるのは初めてかもしれないと、みちるは今更思い至った。思えば引っ越してから、彼がオフの日以外で日付を越えない時間に家にいた事がない。槙人、もといマキは引っ張りだこの人気モデルだ。仕事は昼夜問わず尽きないのだろうと思っていたが、労働条件はなかなかに過酷である。ほろ酔い状態だからか、ついつい「あんなに細いのに大丈夫なのかな」などという、お節介な台詞が口をついて出そうになりながらリビングへと向かうも、槙人がダイニングのテーブルに突っ伏して眠っていた。 「うわっ、」  まさかいると思わなくて小さく悲鳴を上げると、その声に反応した槙人がパッと顔を上げて目を覚ました。みちると目が合い、少しホッとしたような顔をする。 「あ……よかった。スタジオで居眠りしたかと思いました」 「寝ぼけたわりには起きるの早かったね」  少しからかうように言うと、槙人が照れたように目尻を下げた。真顔の時のクールな印象は形を潜め、人懐っこい表情が顔を覗かせる。少し照れくさくなって、みちるはなるべく自然に目線を逸らした。 「お帰りなさい。お疲れ様でした」 「あ、ただいま。遅くてごめんね」 「いえ。僕の方が普段遅いですから」 「夕飯食べた?」 「はい」  自分は外で食べてきたというのについつい気になって、みちるはまるで母のような発言を承知で聞いてみた。すると槙人はゆっくり一つ頷いてから、おもむろに長い髪をまとめ直している。手入れの行き届いたするんとした髪はきつく結んでもヘアゴムがすぐに抜けてしまうようだ。 「じゃあ私、お風呂入ってくるね。槙人くんは明日お仕事だよね」 「はい。僕はもう寝ます」 「おやすみなさい」  そう言って槙人の横を通り過ぎようとした刹那、突然手を引かれてみちるは小さな悲鳴をあげる。掴まれた方の手を見ると、槙人の長くて骨っぽい指がみちるの手首をぐるりと囲っていた。 「あ、ごめんなさいみちるさん」 「ううん、どうしたの……?」  何があったのかと思い、緊張しながら槙人の答えを待つと、槙人は斜め下に視線を逸らしてから、何かを窺うようにチラッとみちるを見る。意図せず流し目のような意味深な目線をもらってしまい、驚き半分と感嘆半分で心臓を揺らすと、槙人は手首を掴んでいた手をするりと滑らせてみちるの手の甲を包むと、もう片方の手も一緒にそっと握ってきた。 「え?」 「……今日まだ、例のスキンシップしてませんでした、から」 「あ、ああ!ごめんね?」  とりあえず謝罪が口を出た。悪いと思うより先に「そんな事?」と言った疑問の方が今の感情にぴったり当てはまるが、槙人はみちるの少し汗ばんだ手を大きな手で包んでは、きゅっと小さく握ってくる。冷たい手のひらは少しかさついていた。 「はい。おやすみなさいみちるさん」 「おやすみ、なさい」  ふと顔を上げると、槙人が満足そうに微笑む顔と目があった。マキのクールな印象は空気と一緒に溶けたのか、どこにも見つからない。代わりにあったのは高洲槙人という、21歳の男の子の安心したような笑顔だけだ。  みちるはそこでようやく気がついた。彼はみちるのことを、この為だけに待っていてくれたのだろう。 「槙人くん」 「はい」 「あの……自惚れだったら、ごめんね。今日もしかして私が帰ってくるの、待っててくれてた?」  だとしたら申し訳ないという罪悪感が今更ながら襲ってくるけれど、槙人はただもう一度にっこり笑うと一つ頷いた。 「当たり前ですよ。連絡もなかなかないし、帰ってくるの遅いから」 「えっ、ごめん!ごめんね?!」 「いいんです。待ってる時間、そんなにつまらなくなかったので」  どういう意味だろうと無意識に首を傾げたが、槙人は少し眉根を寄せて笑っただけだった。そこでようやく手を離した彼は、みちるの肩をそっと叩いて通り過ぎていった。その直後にしたいい匂いはボディクリームだろうか。不意にその香りがしたせいで少しドキリとしてしまう。自分はきっと、汗と疲労と居酒屋の喧騒の匂いがする事だろう。急に恥ずかしくなって、水分を摂ったらすぐお風呂に入ろうと決めてみちるは冷蔵庫を開けた。家のサイズに見合うように冷蔵庫はファミリー用を買ったけれど、まだまだ中身はスカスカだ。作り置きしている麦茶を取り出そうと冷蔵庫を見たところで、見慣れないものが目に入り思わず声が漏れた。 「あれ?」 そこにはラップのかかったお皿が一枚、置いてあった。そっと冷蔵庫の中から取り出し、見てみる。まだ完全に熱が取れていないそれは、少しだけ不恰好ないオムライスだった。  勿論、気づいてしまった。これはきっと、槙人がみちるの為に作っておいてくれた夕ご飯だろう。卵は少しグズついた部分があり、中のライスが少し見えている。微塵切りはそこまで細かくなく、食べ応えがありそうなそれを見てみちるは大きな罪悪感に囚われる。みちるが何も考えず連絡が遅くなったせいで、槙人はみちるの分まで夕飯を作って、もしかしたら待っていてくれたかもしれない。 「……」  少し入ったお酒のせいもあって感情がぐらぐらと揺れてしまう。後悔で不意に泣きそうになりながら彼が作ってくれた、マキのイメージとはやはり程遠い素朴なオムライスを見た。オムライスは実の所作るのに結構手間がいる。きっと実家では彼の祖母がやっていたことだろう。二人分の食事をどんな気持ちで作ってくれたのかを考えると、申し訳なさでつい目元が熱くなった。  もしかしたら一人分の加減がわからなくて余った分を残しておいたのかもしれないし、そもそも一人分作ったはいいけれど食べなかったのかもしれない。けれどその中の予想の範囲内に、みちるの為に作ってくれた可能性が眠っているのだ。  みちるは自覚をしていなかった。帰ったら誰かが待っているということに対する自覚である。そも、結婚した自覚だって未だに無いのだ。それはきっと槙人も同じだろう。けれど、もしかしたら彼はこうして少しずつ自覚をしようとしてくれているのかもしれない。 「……ごめん、槙人くん」  本人がいない所で謝った所で、聞こえるわけがなかった。  次の日朝起きると勿論槙人はいなくて、冷蔵庫の中のオムライスは消えていた。もし残っていたら食べさせてもらおうと思っていたのは、甘かったようである。  買っておいた食パンをかじりながらテレビのニュースを見る、いつもの朝である。今日は彼はいつ帰ってくるのだろう。夕飯は家で食べるのだろうか。好きな食べ物は?嫌いな食べ物も知らなければ。朝ご飯は食べるのか、いらないのか。何も知らないのだ。 「聞いてみるか」  昼休みに、槙人にメッセージを送った。簡素なそれは「今日は夕飯家で食べる?」という、妻というよりもやはり母のようなそれだった。
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