2.新婚生活

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 食べます。というシンプルなメッセージは、みちるが昼休みの間に送られてきた。送ってきた人物は夫である槙人。内容はみちるが朝送った「今日夕飯食べる?」というメッセージに対する返事である。  「ふーん……」  出勤前に準備した、冷凍ご飯を解凍して作ったおにぎりとコンビニで買った大きめのヨーグルトで昼食を摂っていたみちるは、スマホを見ながら小さな声で呟いた。オフィスはちょうど昼休みを取っている人が多く、休憩室で昼食を摂る人々が多い為ちらほらと人が残っているだけだ。今月、昼休み中の電話番担当が回ってきてしまったみちるは妙に響いてしまった自分の独り言が恥ずかしくて反射的に周囲を見回した。そこでちょうど隣の席の畠と目が合ってしまい、みちるは咄嗟にすみませんと呟くと、畠は軽い声音で笑う。 「独り言漏れた時って恥ずかしいよね。わかるわかる」 「うう、聞かなかったことにしてくださいよ」 「無理よ。そこそこ大きな“ふーん”だったからさぁ」  コンビニのコーヒーらしきカップを傾けながら、畠は言った。みちるはそこで頭をフル回転させる。彼女には同居している人物は夫ではなく親戚だと言ってあるので、そのネタを引用することにした。 「ルームシェアしている親戚の子が、今日は夕飯を家で食べるって言うんです。何作ればいいかなーって」 「あぁ、人に振る舞うご飯で確かに普段とちょっと違うよね」  そうなんですよ。と相づちを打って、みちるはヨーグルトを口に入れた。もったりとした食感のそれは、みちるが最近無意識に買うようになった無糖のヨーグルトである。ほとんど互いに無干渉とはいえ家にモデルがいるとなると、なんとなく自分の体型も気になってきてしまう。さすがに身長が全然違うので槙人より重いということはないだろうけれど、そこまで非現実な話ではないような気がして妙な焦燥感を感じているのは事実だ。 「別になんでもいいんじゃない?作るだけえらいと思うけど」  私だったら面倒だからなんか買って行っちゃうわ。と言った畠に、みちるは目を見開いた。そうか。別に作らなくても買って帰ればいい。今日は仕事も忙しくないし、デパートの地下で惣菜を買えば何も悩むことなど無い。と天啓でも得たかのように手をぽんと叩いた。 「なんなら同居してる子にお料理覚えさせちゃうとか。女の子ならいつか一人暮らしした時役に立つよって言ってさ。向こうの方が帰ってくるの早いんじゃないの?」 「あ、ま、まぁ……バイトもしてますし」  正確には不規則な芸能仕事なので、みちるの方が帰ってくる時間は安定している。そして畠の言葉に、みちるはあの時のオムライスをまた思い出していた。先日たっぷりと浴びた罪悪感を再び呼び戻しそうになり、それを撹拌する為にスプーンでヨーグルトをぐるぐる混ぜる。 「学生って結構忙しいもんね」 「そうですね」  いい具合に会話が収束した辺りで、不意にスマホにメッセージが届く。送り主は槙人で、メッセージは簡潔かつ、大胆なものだった。 『もし迷惑でなければみちるさんの作ったご飯が食べたいです。僕好き嫌いありませんし簡単なもので構いません』 「……」  今し方畠が示してくれた最適解が、一瞬で粉々になった。作る分には構わない。元々作る気でいたのだから何も問題はないが、何を作ったらいいのかがわからない。 食べたいものはあるか聞けばいいのだが、既にメッセージで簡単なものでいいという答えを投げて寄越してきている分、具体的なメニューはみちるが決めることになりそうだ。何を作ろう。とうっかり声に出そうになってなんとか踏みとどまった。畠に聞かれたらまた必死に嘘を重ねなければならない。それは純粋に申し訳なくて、既に抱えた槙人に対する別ベクトルの罪悪感と違う罪悪感を、更に抱えなければならないのは少しばかり辛いのだ。  そういう日に限って仕事はかなり余裕があったので定時で帰ることが出来た。みちるは最寄駅のスーパーでカゴを持ったまま、ぼんやりと立ち尽くす。ご飯は炊いてある。むしろそれしか決まっていない。何品作ればいい?メインは肉?魚?野菜も多く使わないとダメだろうか?摂取カロリーに制限は?明日は仕事?ニンニクは使っていいの?どんな味が好き?お酒は飲む?槙人のことなど、まだ何もわからない。どんなものを食べているのかだって、あのオムライスしか知らないのだ。  とにかくどんな料理にも使えそうな野菜たちをカゴに入れて、なるべくヘルシーなものを作れば大丈夫だろうという考えに至った。オムライスを食べていたのだから、よほど油物が多くなければ大丈夫だろうと踏んだのだ。  ふと精肉コーナーに行くと鶏胸肉が安かったのでカゴに入れて、野菜コーナーに戻って長ネギを買う。これでメインは大丈夫だろう。あとは豆腐やパンを買い足してスーパーを出る。ふと空を見ると薄暗い空の中、雲が早い速度で流れていくのが見えた。明日は雨だったはずだが、もしかしたらにわか雨が降るかもしれない。段々と湿り気を帯びてきていた空気を割るように、みちるは帰路を急いだ。家に着くまでに今日のメニューを反芻していると、あっという間に家についた。槙人から帰る旨のメッセージは無い。まだ時間がかかるのかもしれないので、みちるは部屋着に着替えると手早く料理の準備をした。やがてタイマーで炊けたお米の香りがしてきた頃、槙人から連絡が来る。 『あと8分で着きます』 「8分て」  彼の妙に細かい連絡に少し口角を緩めながら、みちるは今しがた出来た料理を見る。茹で鶏にネギのソースをかけたもの、豆腐のサラダ、味噌汁には茄子と中途半端に余ったネギを加えればなかなかにバランスの良い食事が出来上がっただろう。心の中で自画自賛をして、冷蔵庫にしまっておくことにした。ついでに簡単に作って置いた明日のお弁当も詰めて冷蔵庫に入れれば、玄関の鍵がカシャンと音を立てた。槙人が帰ってきたのだろう。 「ただいま」 「お帰りなさい」  玄関まで槙人を迎えに行くと、まとめた髪を帽子の中に入れて軽く変装した槙人がサングラスを取ったところだった。サラッとしたシャツに細身のパンツはマキの印象が濃いが、みちると合った彼の目はどこか楽しそうで、槙人そのものである。 「暑いのにお疲れ様。先にお風呂入る?」 「……」 「えっ、どうしたの?」  すぐお風呂に入るのかどうなのか聞いたのに返ってこない返事にみちるが首を傾げると、キャップを取った槙人が二度、三度と瞬きしてから照れたように目線を下げた。 「いえ、あの。お帰りなさいって、やっぱ嬉しくて」 「そ、そう?よかった。この前はごめんね」  急に照れ臭いことを言い出したのでなんとか軽く流しつつ先日の事を詫びれば、槙人は何のことだかわからない、という顔をした。そんな彼に、みちるは手をひらひらとさせる。自覚がないならそれでいいのだ。わざわざ思い出させる必要もない。 「なんでもない。お風呂どうする?」 「えぇっと、先にお食事しましょう。みちるさんはもう食べましたか?」 「まだ。一緒に食べようよ」 何気なく、というかそれが自然だろうと思ってそう言うと、槙人がじわりと頬を赤くした。肌が白いと少し赤くなったのもすぐわかってしまうんだなぁ。などと考えながら、みちるもつられて照れてしまう。まさか一緒に食事をするだけでこんなに喜んでくれるとは、露ほども思わなかった。 「手を洗ってきます」 「うん」  家に上がって洗面所に向かった槙人を置いて、みちるはキッチンに戻り料理を盛り付けた。今までは盛り付けに気を遣ったことなど無いが、さすがに初めて作ったのだから少しばかり見栄を張りたい。なるべく綺麗に見えるようにサラダも具を満遍なく配置して取り皿まで準備すると、部屋着に着替えた槙人が髪を結び直しながらリビングに入ってきた。 「いい匂い。お腹すいた」 「好き嫌い無いって言ってたから、適当に作っちゃったよ。食べちゃダメなものとか苦手なものあったら避けてね」 「大丈夫です。僕イナゴとかも好きですし」 「そ、そう」  この性差を感じない美しい顔でイナゴを食べてる姿があまり想像できないが、もしかしたらおばあちゃんの影響かもしれない。みちるも特に好き嫌いが無い分、食材に気を遣わなくていいのは正直助かる。 「じゃあ食べよっか」 「待ってみちるさん。はい」 「あ、うん」  槙人はわざわざみちるの席まで来ると、両手のひらをみちるに見せるように広げてきた。条件反射のようにその手に自分の手を重ねると、槙人の方がそっと握ってくれる。みちるよりも大きく、指も長くて爪もすっとまっすぐ伸びたその手の価値は果たしてみちるの何万倍あるのだろうかなどと考えるのも無駄な話だろう。毎日エアコンで乾燥するオフィス内で書類をめくったりキーボードを叩くみちるの手は、きっと触り心地が悪いに決まっている。 「今日も一日お疲れ様でした。仕事帰りなのに食事の準備、ありがとうございます」 「お疲れ様でした。大丈夫だよ。本当に簡単なものしか作ってないし」 「美味しそうです」  槙人が優しく微笑んだ。綺麗な表情に思わずドキリとして、みちるは俯く。やはり彼は人気モデルのマキなのだということを、不意に再確認する。 「ごめんね。私の手カサカサでしょ」 「そうですか?」 「うわっ、」  恥ずかしさを散らす為に言った言葉は逆効果だったのかもしれない。槙人は手を握ったまま、親指でみちるの手の甲を滑らせるように撫でる。突然のことに驚いて手を離そうとしたけれど、槙人は離してくれなかった。 「小さくてかわいいと思います」 「そんなこと、ないよ」 「ありますよ」  するりと布が指の間を滑るように撫でられて、心臓が強く波打つ。今まであまり槙人のことを男性と意識したことなかったみちるは、その時初めて強く槙人が男性であると自覚した。 「ご、ご飯!ご飯食べよ!冷めちゃう」 「あっ、そうですね」  なんとか本来の目的に意識を向けさせると、槙人はそっと手を離して、向かいの席に座った。心臓が高く鳴っていることを見破られないように言葉を繋げて今日のメニューを説明すると、槙人は可愛らしく目を輝かせながら手を合わせ、箸を持った。 「ねぇ槙人くん。仕事の都合上食べちゃいけないものとかあるなら今教えてくれる?例えば揚げ物とか、お肉の脂身は取れ、とか」  茹で鶏にソースのネギを沢山乗せて、大口でかぶりついた槙人に言うと、暫く咀嚼してから飲み込んだ彼は首を横に振った。 「特にないです。僕トンカツとかコロッケ大好きですもん。脂身とかも気にしたことないし」 「それでその体型?」 「多分体質ですかね」 「に、憎たらしい……!」  無性に悔しくて、みちるは茹で鶏の塊にかぶりつく。気を遣って買った胸肉はわざわざ皮も取ったというのに空回りだったようだ。   「あっもしかして、だからこんなにヘルシーなメニューなんですか?すみません、気を遣わせてしまって」 「だって天下のモデル様がトンカツ大好きなんて知らないもん」 「勿論こういう食事も好きですよ。みちるさんお料理上手なんですね」 「そんなことないよ。じゃあ今後は普通にカレーとか出してもいい?」 「カレー好きです。その、僕も料理覚えますね。頑張ります」  槙人がどこか恥ずかしそうに目を伏せた。槙人の長いまつ毛を見ながら、みちるは無理はしないでね。と返すと皿に残った残り少ないサラダを全て自分の方へと寄せたのだった。
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