2.新婚生活

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「私コーヒー飲むけど、槙人くんはどうする?」 「あ、飲みたいです。僕やりましょうか?」 「いいよいいよ。座ってて」  夕食を作ってくれたお礼と称して洗い物をすると言ってくれた槙人に甘えて片付けをしてもらったので、自分が飲みたいだけのコーヒーを淹れることまで手伝ってもらうのも申し訳ない。みちるはいつも通りにペーパーフィルターと一人用のドリッパーを二回使ってコーヒーを二人分淹れたのだが、槙人もコーヒーが好きだと言うのならファミリー向けのコーヒーマシンを買ってもいいかもしれない。などと考える。 「はいどうぞ。ミルクとか砂糖とか大丈夫?」 「大丈夫です」  先ほどまで夕食の皿が乗っていたテーブルを挟んで二人、コーヒーを口に付ける。白地にベージュのラインが入ったマグカップはやはりネットで急遽買った安物だけれど、槙人が持つだけでハイブランドの食器に見えるから不思議だ。 「美味しいですね」 「そう?安いやつだよ。コーヒー好き?」 「好きです。でも現場ではなるべく飲まないようにしてるので」 「そっか。カフェインて取り過ぎはよくないもんね」 「それもありますけど、どちらかというとキャラ付けの為ですね。コーヒーは香りが強いから、飲んだから歯磨きしなきゃいけませんから」 「た、大変だ……」  少し恥ずかしそうに槙人は笑ったけれど、もしみちるがそれを理由に仕事中のコーヒーの量を制限されたらたまったものではないと思ってしまうし、普段はタブレットで誤魔化してるだけなのでひたすら理由に圧倒されてしまった。 「でもモデルのマキが話したらコーヒー臭いって、なんか嫌でしょ?」 「う、確かに……槙人くんなら全然いいけど、マキは食事すら取ってるの見たらビックリするかも」 「ね?そういうイメージで売ってるので」  槙人は軽い声音で言うが、実際イメージを守るというのはどれほど大変なことだろうかと、みちるは考える。そもそも素の槙人はモデルのマキとは似ても似つかないイメージ、むしろ両極端の立ち位置にいると言える。そんなキャラクターをみんなの為に守りつつ、彼は一人称から食事から何から、色んなものをみんなの為に偽っているのだろう。モデルを始めたきっかけは聞いたことがないが、なんとなく今聞くのは憚られた。単にスカウトされたとかそういう理由な気もするが、槙人、もといマキのことを何も知らない状態で聞くのも変だろうかと迷ったので、迷った場合は聞かないに越したことないと思ったのである。 「じゃあ、家では気兼ねなく飲んでね」 「はい」  無難な返答で、その話題は終わりにした。まだ互いのこともよく知らないのだから、その辺りはもう少しだけ時間をかけていきたい。 「コーヒー自体は好きなんですよね」 「そうなんだ。じゃあ二人分淹れられる機械、ほしいよね」 「いいですね。この家まだ家電少ないですし、欲しいものが思い付いたら相談し合いましょう」 「じゃあまずコーヒーメーカーかな。ネットでちょうど良さそうなの、調べておくね」 「ありがとうございます」  以前気になって調べていたコーヒーマシンの値段はいくらだったか思い出しながら、みちるはカップの中の焦げ茶色の液体をぼんやりと見つめた。それからもう少し、カタログやネットの口コミを見ようと内心意気込む。折角だから、少しいいマシンを買ってしまいたい。 「あの、みちるさん」 「ん?」  不意に槙人が、カップを持ったまま少し恥ずかしそうに視線を逸らしながら言った。切れ長気味の瞳はただ視線を外しているだけなのに、どこか物憂げそうな流し目に見えてくる。 「好きな食べ物とか、なんですか?」 「え?」  唐突な質問に思わず聞き返せば、槙人は微かに頬を赤くした。一瞬で冷静になって、恥ずかしくなったのかもしれない。 「す、すみません突然」 「ううん。全然いいけど……」  なんで食べ物?と思ったけれど、みちるは斜め上を見ながら、自分の好きな食べ物を思い出した。改めて考えるとすぐには出てこないもので、暫く首をひねっていると質問者である槙人が助け船を出してくる。 「僕はコロッケと、オムライスです」 「オムライス?」 「はい」  あの時作ったものは本人の好物だったのか。と思うと、申し訳なくなると同時に妙にかわいらしく見えてくる。成人している上に、花でも食べて生きてそうな男の子の好きな食べ物が小さな子どもが好きなものの代表格なのが、妙にかわいい。 「そ、そうなんだ。おいしいよねオムライス。私も好き」 「今度一緒に食べましょう。僕、オムライス作れるんです」  自信満々に胸を張る槙人に、みちるはつい笑いそうになったが、それと同時にあの時のことを思い出してしまって、笑うに笑えなくなってしまう。そしてこのままモヤモヤを抱えているのも嫌になって、思い切って謝ることを決めると、みちるは改めて槙人の目を見つめた。 「あの、槙人くん」 「はい?」 「あのね。この前……私の方が遅く帰ってきた時、槙人くんもしかして私の夕飯、とか作って待っててくれた?」 「……」 「槙人くんが寝てから冷蔵庫見たら一人分のオムライス入ってて、もしかして私の分だったのかなって。あの日、私遅くまで連絡しなかったでしょ?その、もしそうだったら、ごめんね。私、全然……」  結婚したことを自覚していなかったと繋げようとしたら、槙人はきょとんと目を丸くしながら会話を被せてきた。 「それ、もしかしてみちるさんが悩むような顔をしていた原因ですか?」 「えっと……」 「だとしたら、僕の方こそすみません。みちるさんに先に聞けばよかったのに何も聞かずに準備したんですから。まさかそんなに悩ませていたなんて思わなくて」 「槙人くんが謝る必要なんてないよ」 「いえ、お互い様ですよ。余ったオムライスは僕の朝ご飯になったので問題ないですし、卵に平然と殻、入ってましたし。もう少し練習したら一緒に食べましょう」  ぽん、と手を叩くように重ねた槙人が朗らかに笑った。まだ互いの性格すらよく知らないからだろうか、槙人の優しさが妙にみちるの中に染み込んでいく。 「ありがとう。そしたら私が今度オムライス作るよ。その、旦那さんの好物、だもんね」  少し気恥ずかしかったけれど、みちるはあえてそう呟いた。ほとんど自覚のない結婚生活は、ようやくほんの小さな火が灯ったような気がする。向かいの槙人を見ると先ほどよりも頬を紅潮させていた。みちるがうっかり驚いたような顔をしてしまったせいで槙人も自身の顔色に気が付いたのだろう。恋を初めて知った乙女のようなリアクションがコーヒーの香りに紛れて、気恥ずかしい空気が天井に向かって立ち上っていく。こんな空気になるのは正直初めてで、みちるは妙なくすぐったさを感じてその場から逃げ出したくなってしまう。  完全に沈黙してしまった槙人に「なんか話して!」と理不尽な要求を心の中でしながらも、みちるはなんとか話の大筋を元に戻した。みちるが話を脱線させて、自身でそれを戻す。なんだか滑稽な独り相撲のようだが仕方がない。まさかこんな空気になるとは思わなかったのだ。 「えっとえっと。私、私の好物はね、固いプリンとコーヒー。あとお茶漬け!」  叫ぶように自分の好物を羅列すると、槙人が顔を上げた。頬は赤いままだけれど、表情は照れよりも驚いたような顔をしている。 「お茶漬け」 「だ、だめ?おいしいじゃん」 「おいしいですけど……少し渋いですね」 「いいの!」  基本好きなのはお茶漬けの素を使ったタイプのものだが、だしを使ったものも好きだ。そう豪語すると、槙人は目を細めて優しく笑った。 「じゃあ今度、僕はお茶漬け作ります。なのでみちるさんはオムライス作ってくれますか?」  みちるの答えを待たずに槙人はコーヒーのカップを傾けた。それが彼なりの照れ隠しかもしれないと思ったら、みちるの中に母性にも近いような、不思議な感情が小さく隆起する。彼がカップを置いたら肯定の返事をしようと、みちるは自身のカップの取っ手を摘まむようにして弄んだ。
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