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三
父の書斎で優真の話をした。
『優真は俺の子を身ごもってる。番になるつもりだ。これ以上母さんが余計な事をするのを止めてくれないなら、俺は家を出ようと考えている。弟か妹を呼び戻すなり好きに跡継ぎに据えてくれ。』
おおよそそういった内容の事を言ったが、父は黙って腕を組んで何かを考えているようだった。
暫く答えを待っていると、父は深く溜息を吐いてから俺を見た。
『…わかった。母さんには私からきつく言っておく。対処もしよう。』
『本当だね?』
『約束する。
それに、既に妊娠させてしまったのなら、その子が家の跡継ぎになる。そんな子供を籍さえ入れないままで産ませる訳にもいくまい。』
何よりも体裁を気にする父らしい言葉だったが、俺には都合の良い答えだった。父はプライドが高く寡黙だが、嘘をつく人間ではない。
優真の家は一般家庭だが、年の離れた姉が経営する飲食店はそこそこの収益を上げているらしく、経済状況的には悪くない。母に言われる程家柄が悪いという訳でもない筈だ。父は自分と同格かそれ以上の家柄でなければ見下げる母とは違い、フェアにジャッジしてくれるだろうと俺は期待した。
そして、父は俺の気持ちを汲んでくれた、と思った。
何よりも長子継承を重んじてきたこの家で、長男の俺に出奔されたら自分の立場が無いとでも思っただけかもしれないが、そんな事はどうでも良かった。
翌日、父に何をどう言われたのか、母は俺に謝罪してきた。だが俺は母に言葉を返す事無く大学へ行った。
俺よりも先に謝罪すべき相手がいるだろうに、本当に母は浅はかな人だと軽蔑の気持ちさえあった。
それから暫くして、俺は優真を実家に連れて来て父に会わせた。父は挨拶をする優真を少しの間じっと見つめて、頷きながら挨拶を返した。母も同席はしたが、母が口を開く事を父は許さなかった。
父が優真を気に入ったのかどうかは良くわからないが、息子をよろしくお願いしますと頭を下げてくれたから、優真の事を認めてくれたには違いなかった。
母は父の隣で能面のような顔をしていたが、不服を口に出す事はなかった。
俺が口にした言葉はしっかり父から伝わっていたらしい。母は、これ以上余計な事をして俺に距離を取られるのも家を出て行かれるのも困ると考えたのだろう。
結局、優真が来てから帰る迄の小一時間程の間に、俺と優真の仲は父公認になり、子供が産まれる前には入籍をする事に決まった。
結婚式は、親戚連中の手前、おそらく避けられないが、優真の体調が落ち着いてからという事になった。
番の契約は、優真が既に妊娠してしまっていてヒートが来ない為、出産を待ってからという事になるが、入籍してしまっていればそれは前後しても問題無い。
番になっていなくても優真が俺の恋人で俺の子を宿してくれているのは事実なのだから、急がなくても奪られたりはしない。
優真には俺の匂いがベッタベタについているのだから。他のαにこれだけ愛されているΩに手出しするαなんか居ない。
そう、油断し切っていた。
あの、感情的な母が、無感情に俺達を見ている事への違和感を無視して。
優真が病院に運び込まれたと連絡が入ったのは、それから一ヶ月くらい経った時だった。
最後の講義が終わってからバッグから取り出したスマホを確認すると、何件もの着信が入っていた。
知らない同一の番号からと、優真の姉からのもの。
優真の姉とは優真との関係を伝えた時に念の為にと連絡先交換をしたはしたが、掛かって来たのは初めてだ。そして、優真本人からの連絡は無い事に、俺は不安を覚えた。
その時また着信が入り、俺は瞬時にそれを取った。
「はい、神野です。」
『菜帆です。清人君、未だ大学よね?』
やはり優真の姉の菜帆さんだった。
「そうです、今終わって…。」
『落ち着いて聞いてね?
…優真が、歩道橋から落ちたの。』
前置きされたにも関わらず、そんな数秒なんて何の役にも立たなかった。俺は目の前が真っ暗になり、スマホを取り落としそうになった。
『未だ意識不明で処置室よ。病院は―――。』
それを聞いて、俺は電話を切り、走った。表通り迄出て、運良く来たタクシーを拾うと、さっき聞いた病院名を告げた。
優真を失うのではと、そればかりが頭を占めて、胸が重苦しくなり、冷や汗ばかりが出た。
祈るような気持ちが胸の前で組んで握り締めた両手に現れていたのだろうか。
初老の男性運転手も、色々察したのか何も話しかけてはこなかった。
救急外来の待合室には、優真の両親と姉の菜帆さんが座っていた。出入り口のドアの開閉音に反応して立ち上がった菜帆さんが俺を見てきゅっと唇を引き結んだ。今にも泣きそうなのを堪えているような表情に、俺の不安はますます強くなった。
「優真は…。」
「未だ中よ。」
「何で、こんな…。」
動揺を隠せない俺を長椅子に座らせ、菜帆さんは事の成り行きを話してくれた。
数時間前、店休日だからと菜帆さんと優真は店で使う備品を近くの雑貨店に買い足しに行ったのだという。ついでにランプやプレートも買ったりして、店に置きに行こうと歩道橋を渡ろうとした。少し先を歩いていた優真が歩道橋の階段を降りようとしていた時、菜帆さんの横を通り過ぎていった女性が優真にぶつかった。背中から押された優真はそのまま階段を転げ落ちていき、菜帆さんが上げた悲鳴で周囲の店の店主や客が表に出て来て救急車を呼んでくれた。
優真にぶつかった女は、何時の間にか姿を消していたが、小柄な中年女性だったという。帽子の影になっ出ていたが、その顔立ちや特徴を至近距離で見た菜帆さんは覚えていた。
そして、それを聞いた俺の体からはごっそり力が抜けてしまった。頭の芯が痛い程に冷えていき、震えが止まらなくなった。
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