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四
(母さん…。)
菜帆さんの述べた女性の特徴は、明らかに母のものだった。
ウェーブの掛かった長い黒髪、黒いつばのある帽子、ブルーの花柄の長めのスカートは母がお気に入りでよく着ているものに似ている。尤も、それだけでは他にも幾らでも趣味が被る人は居る。だが、
『つり目がちの目が大きくて、綺麗な人だった。口許にね、黒子があったわ。私の右側を追い越していったから、唇の左側ね。』
それを聞いた時、確信した。
そして、それは母に対する嫌悪感が憎しみに変わった瞬間だった。
菜帆さんの話を一通り話を聞き終えて、俺は立ち上がり、出入り口外に出て父に電話を掛けた。
数コール後に出た父は、穏やかな低い声で『どうした?』と言った。俺が父に電話を掛ける事なんて滅多にないから、実は驚いていたのかもしれない。
「…父さん、今って家?」
『さっき帰って来た所だ。』
「母さん、居る?」
俺の問いに父が電話の向こうで少し身じろいだ気配がした。
『…いや、出かけているようだな。どうした?連絡取れないのか?』
「母さんが帰ってきたら、服装をよく見ててくれないかな。」
『…何故だ?』
俺は迷った。
未だ疑惑でしかない段階で、本当にそれを口にして良いものかと。だが、その為にわざわざ父に電話をしたのではないかと思い直す。
「優真が、歩道橋から落とされた。」
受話口から息を飲むような音が聞こえた。敏い父は話の流れで全てを察したのだろうと思った。
『…それで、優真君は…?』
「未だ処置室だよ。状況はわからない。」
答えながら、スマホを握り締める手に力がこもった。声が震えているが、自分ではどうにも止められない。
取り敢えずは優真の容態がはっきりする迄病院にいる事と、母が帰って来たら服装と様子を確認して連絡が欲しいと再度頼んでから通話を終えると、直ぐに涙が込み上げて来た。
優真が死んだらどうしよう。腹の子は無事なのか。いや、万が一腹の子が駄目でも、優真さえ助かってくれたら…。
生命に優先順位をつけてしまう事に思う所は無くもないが、未だ見ぬ我が子より優真の方が大切なのは仕方の無い事ではないだろうか。
もし、優真と子供がこの世から居なくなって、優真を階段から落とした犯人が母だとしたら…――。
俺は何をどうしたって母を殺してしまうだろうと、そう思った。
父からのコールバックがあったのは、最初の電話から一時間後。
相変わらず優真は処置室に入ったままで、俺と優真の家族は待合スペースの長椅子にまんじりともせずに座っていた。
胸ポケットに入れていたスマホが振動して、俺は画面を確認してからスペースを出て、少し離れた場所でそれを取る。
「はい。」
『…さっき母さんが帰ってきた。』
その後、薄いプレート越しに父の口から告げられた言葉に、俺は膝から崩れ落ちた。
母の服装は、菜帆さんが見た犯人の女の出で立ちそのまんまだった。
母は、まさか優真の関係者が少し離れて歩いていたなんて思いもしていなかったのだろう。誰かとすれ違ったのも、単なる通行人だと思い、注意を払わなかったに違いない。
けれど、至近距離ですれ違ったのだから通行人がいるのは認識していただろうに、目撃されるとは思わなかったのだろうか。それとも、目的の為に周囲が見えなくなっていた?
直情的に振る舞う事の多い母なら、有り得そうだと思った。
(許さない…。)
優真と優真の家族に対する申し訳無さと、母に対する憎悪、その母の血を引いている自分への嫌悪、優真を失うかもしれない不安。幾つもの感情が綯い交ぜになり、俺はシャツの胸を強く握り締めた。
顔面蒼白で待合室に戻った俺は、菜帆さん達に土下座した。言うタイミングなど考えられなかった。優真の家族の悲痛な表情が辛かった。今にも俺に殴りかかろうとした優真の親父さんを止めてくれたのは、菜帆さんだった。
「清人君が突き落とした訳じゃないでしょう。
優真を失うかもしれない恐怖に耐えているのは、清人君も同じよ。」
菜帆さんだって、優真を守れなかった俺と俺の母に対する怒りは計り知れないだろうに。
身重の婚約者に対して身内が危害を加えた事を知ってしまった俺の心の状態を慮ってくれた。
いっそ殴ってもらった方がまだ良かった。
優真と腹の子を死の淵に立たせた罪人の息子なんて。愛する人ひとり守れない、約立たずの俺なんて。
優真は一命を取り留め、腹の子も無事だと看護師が伝えに来て、俺達は安堵のあまり床にへたり込んだ。
一時は出血が酷かったらしく危険な状態になったが持ち直したと。輸血も必要で、少し頭も打っているし左手の骨折もあるから暫く入院にはなるけれど、最悪の事態は免れた。
正直、あんな高さの階段を転げ落ちて、腕の骨折だけで済んだのは奇跡だろう。
優真と胎児の生命力と運の強さに心底感嘆する。
『母体が事故にあっても無事なら、赤ちゃんも結構大丈夫なものよ。』
と菜帆さんには慰められていたけれど、本当にそうなるなんて。
けれど、意識は戻っていないし、当然ながら顔を見る事は出来ない。
「…清人君、君も今日は帰りなさい。」
菜帆さんの言葉に、俺は頷いた。
そして、俺とはもう目を合わせてもくれなくなった優真の両親に、もう一度深く頭を下げた。
「本当に、申し訳ありません。
…母と話して、話を聞き出します。その後は…、」
その後は…。
どうしたら良いのだろうか。
母はもう犯罪者だ。
その息子の俺が、優真との未来を望むのはもう無理なのかもしれない――。
胸の中をそんな絶望感が渦巻いた。
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