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五
帰宅した俺は、リビングの椅子に死人のように青ざめて座っている母の前につかつかと歩み寄り、
「ふざけんな人殺し!!」
と罵倒した。
実際には優真は助かっているし死んではいないが、母に自分が仕出かした事の重大さを思い知らせたかったのだ。
だが母の反応は、俺が期待したものとは違った。
「死んだの?」
パッと上げた顔は、笑顔だった。
「……は?」
「死んだのよね?
あー、良かった。」
母は本当に晴れ晴れとしたような笑顔でそう言った。その様子に俺は一瞬呆け、父は激昂し母を平手で叩いた。
普段、人に手を上げた事なんか無かった父が。
何よりも、番である母を大切にしていた父が。
叩かれて倒れ込んだ母も、見ていた俺も驚いた。
俺達の視線を受けて重々しく開かれた父の唇。
「君とは番を解消する。」
数秒後、言葉の意味を理解して母は再び青ざめた。そしてヒステリックに叫ぶ。
「どうしてよ!!」
そんな母に、父は冷たく言い放つ。
「殺人犯を番になんかしておけるか。」
「…っ!」
言われて母は、やっと自分の置かれた立場を理解したようだった。
番のαの溺愛を良い事に我儘をするΩの話はよく聞くし、α達もそれを許すのが甲斐性のように考えてる所もあるが、今回の事は流石に我儘という類のものではない。優真が死んでいなくても殺人未遂だから刑事告訴は免れない。
生まれながらに高い能力を持つαには、社会的重責を担う者が多い。会社や、従業員、一族郎党。
時には担う立場や彼らを守る為に、愚かな番を捨てなければならない事もある。
番を解除され、切り捨てられたΩにどんな末路が待っているのかわかっていたとしてもだ。
しかし、それは非常に稀な事だと言われている。けれど父は今、まさにそれをしようとしているのだ。
「嘘、よね?」
母の怯えた表情にも、父の消えた表情は戻らなかった。目に感情が無い。
「…私は君の事を理解できていなかったんだとわかった。」
聞いた事のないような低く冷たい声。
「我儘だが、人の命の重みくらいは理解している人間だと思っていた。」
「あなた…。」
母は倒れたままの姿勢で父を見上げている。信じられないのだろう。何をしたって、どんな時だって、父は母を咎めたりせず、優しかったのだから。
母は唇を震わせながら父の足に縋った。
「ごめんなさい、ごめんなさい!!清人を盗られると思ったの!庶民のΩなんか清人には似合わないと思って、」
「謝罪する相手が違うんじゃないのか。」
「!!」
「明日にでも三津原さんに頭を下げに行け。許しを期待せずにな。」
「嫌よ!何でこの私があんな底辺連中に…!」
この期に及んでそんなセリフが出てくる母に憎悪しか湧いて来ない。僅かに残っていた情すら消し飛ぶ汚らしい言葉だった。
父は呆れたような溜息を吐くと、母から乱暴に足を離した。
「それなら好きにすると良い。血の繋がった孫の命まで絶とうとするなど、あさましい。
この一族にそんな獣以下の観念しか持たない犯罪者は要らない。君とは近日中に番の解除をする。」
そう言って背中を向けた父は、もう母を見る事は無く言葉だけを続けた。
「瀬戸の家には私からも解除離婚の理由は説明するが、先に自分でも連絡を入れておいたらどうだ。」
瀬戸というのは母の実家だ。宇崎の家と比べれば格は落ちるがそれなりの家。
いくら娘時代には甘やかされて育てられたとはいえ、今では母に甘かった祖父は引退し、性格の厳格な伯父に代替わりしている。事の成り行きを知ってしまえば、母を温かく迎えてくれるなんて事は無いだろう。ましてや、これから殺人未遂で警察と裁判所の世話になるであろう人間なんて、家門の恥でしかないと考える筈だ。
へなへなと床に這いつくばりそうに脱力する母に、部屋を出て行く父が最後に告げた。
「君には幻滅した。」
母の瞳から光が消えた。
だが、俺がそれに心を動かされる事は無かった。
「…優真は生きてるよ。頑張ってくれた優真とお腹の子に感謝しろよ。
辛うじて殺人犯にだけはならずに済んだんだからさ。」
「…え?」
幾許かの反応を見せた母に、俺は続けた。
「誤解するなよ。だからってアンタがやった事は消えないし、証人もいるから。」
「……清人…。」
「二度と俺と優真に近づくな。」
言いながら俺も父に続いて部屋を出た。部屋に残された母がどんな様子かなんて知らない。
只、母に言葉をぶつけながら苦しかった。
母が傷つくかもしれないとか、そんな事ではない。
俺と優真に近づくな、と言いながら、もう俺と優真に一緒に歩く未来は無いかもしれないと思っていたからだ。そんな風に俺達の運命を歪ませた母を心底恨んだ。この身に流れる母の遺伝子すら疎ましく思う程に。
階段を上っている父の後を追って、書斎の扉の前で追いついた。
「父さん。」
父は俺の声にゆっくりと振り返った。
「大丈夫?本気で母さんと番を解除するつもり?」
「ああ。」
短く答えた父の顔には、疲労の色が見えた。
「優真、何とか助かったよ。子供も。」
「そうだったのか。…良かった、本当に。」
父は少し俯くようにして眉間を押さえた。安堵の滲む声が、父の心労を物語っている。
「私も明日はお前と病院に行こう。満足なお詫びが出来るとは思わないが…。」
「…わかった。ありがとう。」
本当なら真っ先に頭を下げるべき人間は、自分の罪の重さがわからない。だから伴侶である父がその分も頭を下げてくれるつもりなんだろう。俺の為に。
「母さんとの事は、なるべくしてなった事だ。
本来なら…ああなるまで増長させてしまった私にも責任があるから、添い遂げるべきなのかもしれないが…それだと彼女は生涯、自分のした事がわからないまま終わる。反省する事もないまま、今迄通りの生活を送る事になる。」
「…そうだね。」
実際、殺人未遂が立証されれば、母は懲役刑に処せられる事になり問答無用で塀の中に入る事になるだろう。だが、番を解除された母が、その刑に服し、刑期を務めあげる事が出来るかはわからない。
αに捨てられたΩが長生きした試しなど、無いのだから。
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