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六
翌日、俺と父は午後に外で落ち合い一緒に病院に行ったが、優真の意識は未だ戻らず、顔を見る事は叶わなかった。
「もう目が覚めてもおかしくないらしいんだけど…。」
待合室の一室で父の謝罪を受けた後、菜帆さんはそう俺達に話してくれた。心配そうではあったが、昨日よりも表情が和らいでいたので少し安心する。優真の両親は寝不足と心労で今日はダウン中で、菜帆さんはご主人に店を任せて病院に様子を見に来たのだと言う。とはいえ、ICUには親族でも早々長居は出来ないんだけどね、と苦笑する菜帆さんを見て、痛い程気持ちがわかった。
俺だって許されるものなら朝から晩まで優真の傍に居たいと思っている。
ご両親がそんな状況なら家に押し掛けて謝罪するのも逆に申し訳無いだろうか、との父の言葉に、菜帆さんが反応する。
「じゃ、まさかやっぱり…。」
「優真君を傷つけた犯人は間違いなく私の妻です。本人にも確認しました。
お詫びのしようもない。」
父と俺は菜帆さんに深々と頭を下げた。後頭部に菜帆さんの視線を感じる。
「…頭を上げて下さい。」
数秒後、菜帆さんは落ち着いた声でそう言った。だが父はそのままの姿勢で言う。
「妻に対して、此方では庇いだては一切しません。」
父の言葉に、意外そうに目を見開く菜帆さん。
「良いんですか?」
良いんですか、とは、俺の父がαであり母が番のΩである事を指すのだろう。
番夫婦の場合、αによっては番を守る為に攻撃性を露わにして、例え分が悪くても権力を使って徹底抗戦してくる場合もある事を知っているからだろう。確かにそれもαの防御本能の一つだ。
けれど、通常の軽微な犯罪などならともかく、母が仕出かしたのは普通の犯罪じゃない。自分の孫を胎内に宿した息子の婚約者…将来の番になる人間に殺意を持って危害を加えたのだ。
αの本能は伴侶の番だけではなく、自分の血を受け継いだ子供や孫に対しても発揮される。
繋いでいかねばならないからだ。自分の、αの血脈を。その芽を摘む者は許さない。
「お気の済むようになされて下さればと思います。
昨夜本人と話してみて…そうでもしなければ、彼女に人の痛みを理解させる事は難しいと判断しました。」
今朝、大学への出掛けに見た時、母は昨夜の服装のままリビングのソファに俯いて座っていた。
けれど仕事に向かう父も俺も、声をかけなかった。母がそうしているのは、恐らく反省しての事ではなく、自分自身を哀れんでいるだけなのだとわかる。
未だ俺達に気に掛けて貰えるかもしれないと期待してそうしているようにしか思えず、俺と父は通いの家政婦さんが来たのと入れ替わりに家を出てきたのだ。
せめて自首するとでも言ってくれたなら、情のひとつも湧いたかもしれないのにと情けない思いだった。
俺は母に対して薄情なのだろうか。
けれど俺にとっては母はもう、俺の大切な人を害する敵でしかない。
菜帆さんは、父の神妙な様子を受けて頷いた。
「そちらがそれでよろしいのなら…。家族で話し合ってみます。」
その言葉に、父はまた深々と頭を下げる。俺はそれを見て堪らなくなった。
祖父を早くに亡くし、若くして一族の長に就いた父がこんな風に誰かに頭を下げているのを見た事なんか無かったからだ。
それなのに、母のした事と俺の為に躊躇無くそうしてくれている。
こんな立派な父が何故あんな母と一緒になったのか、不思議で仕方なかった。
二日後。俺は菜帆さんからの連絡を受けて、慌てて病院に駆けつけた。
『優真の意識が戻ったの。』
昼休みが終わる直前、三限目の講義が始まる前だったので、俺は急いで大学から病院にタクシーで飛んで行った。
昨日、ICUからHCUに移されたので病棟が変わったと聞いていたから、急いで指定された階へ急いだ。
ところが着いてみると、気の所為か微妙に慌ただしい空気。
ナースステーションで優真の名を告げてみると、若い看護師の顔色がサッと変わった。そして、少々お待ち下さい、と何処かへ小走りに走り去って行く。
俺は訝しく思った。菜帆さんからの連絡には、短時間なら面会出来るとあった。
なのに何故…。
俺はナースステーションの傍にボーッと突っ立ったまま、看護師が戻って来るのを待った。
暫くして戻ってきた看護師は、菜帆さんと一緒だった。
「優真が…何処にも…。」
息を切らしながらそう言った菜帆さんの声は震えていて、並々ならぬ焦りが滲んでいた。その表情を見て胸騒ぎを覚えた俺がどういう事なのかと問うと、菜帆さんは優真が目覚めてからの流れを説明してくれた。
優真は意識が戻り、暫く声も出す事無くぼんやりしていた。看護師が優真の目が開いている事に気づき、医師を呼ぶ為に離れたほんの僅かの隙に、優真はいなくなってしまったのだという。片腕を骨折していて、全身打ち身だらけで意識も朦朧としている筈なのに遠く迄行ける筈が無いから、初めは近くのトイレを捜して回った。けれどいない。
考えにくいが、あの状態の患者が自主的に動くものだろうかと、誰かの連れ去りを疑ったりもしたという。だが…。
「今、警備室で出入口付近の監視カメラの録画映像を確認してもらってたところ…。」
俺の心臓はバクバクとうるさく音を立て始める。
「優真、あんな体なのに、自分で出てったみたいなの…。」
菜帆さんの声は涙声になっいた。俺はいても立ってもいられず、優真を探しにその場から駆け出した。
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