某患者における原因不明の動悸について

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医師「……なるほど。時折、立っていられないほどに激しい動悸がすると」 患者「はい。このままでは日常生活も危うい所です」 医師「しかし、一通り検査してみましたが特にあなたの健康状態に悪いところは見受けられませんでした」 患者「では精神的な部分でしょうか」 医師「十年ほど前には鬱の傾向があったようですが、今は寛解してらっしゃるようです」 患者「そうですね、生きる目的ができたので」 医師「何よりです。でしたら、何か根深いトラウマがあるのかもしれません。そこの所はどうでしょう」 患者「はて、心当たりはありませんが」 医師「わかりませんよ。時として人は自らの心を守るべく、都合のいいように記憶を改ざんしてしまう。同じ現象があなたに起こっていないとは限りません」 患者「でしたらそうなのかもしれません。定期的に激しい動悸がするのは本当ですから」 医師「しかし、立っていられないほど、というのは不安になりますね。定期的とは、どれぐらいの頻度ですか?」 患者「一日一回、必ず」 医師「時間帯は?」 患者「昼食を食べた直後でしょうか」 医師「会社の食堂で?」 患者「いえ、僕は決まって会社近くの小さな定食屋で日替わり定食を頼みます」 医師「うーん、では特定のアレルギーがあるわけでもないと」 患者「はい、生まれてこの方覚えがありません」 医師「場所に関係があるのでしょうか」 患者「そうかもしれません」 医師「医師として見過ごせることではありませんね。一緒に行ってみましょう」 患者「ありがとうございます」 患者「ここです」 医師「ここですか。心臓の様子はどうです?」 患者「至って普通です」 医師「ならば条件を同じにしてみましょう。幸い今の時刻は昼食前。試しに定食屋に入り、日替わり定食を食べてみることにします」 患者「わかりました」 店員「お待たせいたしました、日替わり定食です」 医師「おお、これは美味しそうですね。今日はハンバーグですか」 患者「はい。ちなみに昨日はエビフライでした」 医師「メニューに幅があるのは嬉しいですね」 患者「ええ、スープもメインに合わせて変わるんですよ」 医師「でしたら尚更アレルギーの線は薄そうですね。ところで……」 患者「はい」 医師「さきほどの店員さん、とても可愛らしかったですね。どうでしょう、もしかして彼女に恋をしているから動悸がするのでは?」 患者「いえ、それはありえませんね。僕の好みはもっと年上でした」 医師「そうなのですか。いやしかし、とても懐かしい味です。何度でも食べたくなりますね」 患者「そうでしょう、そうでしょう」 医師「いやあ、とても美味しかった。また来たいぐらいですよ」 患者「お気に召したようで良かったです」 医師「ところで、問題の場所はどこですか?」 患者「もうすぐです。あの角を曲がった、人気(ひとけ)の無い所……」 医師「……」 患者「……」 医師「……ここは」 患者「どうされました?」 医師「おかしいな、私も動悸が激しくなってきた」 患者「そうでしょうね。ここはあなたにとって、思い出したくない場所でしょうから」 医師「ど、どういうことです?」 患者「十年前、あなたはよくあの定食屋に通っていた。食べるのは決まって日替わり定食。そこで、一人の女性店員に目をつけたのです」 医師「……」 患者「あなたは何度もその女性に言い寄ったが、女性は断った。当然です、彼女は結婚しており娘までいたのだから」 医師「な、何を……」 患者「しかしあなたは申し出を断った彼女に逆上した。あろうことか、彼女が帰る所を見計らって背後から……」 医師「違う! わ、私は人を刺してなど……!」 患者「おや、僕は何も言っていませんよ? 襲ったとも、殴ったとも……刺したとも」 医師「……!」 患者「その通りですよ。彼女は――僕の妻は、それは惨い刺し傷を受けて死んでいました。ですが目撃情報が無いこともあってか、当時の警察は犯人を捕まえられなかった。僕はお前が犯人じゃないかと訴えたが……お前は、方々に金を握らせてとっくに海外に高飛びしていたな」 医師「ち、違う! 俺は、そんな……!」 患者「そして数年後、お前は何食わぬ顔であの病院の医師になっていた。見かけた時は、一瞬で鬱病が吹き飛んだ気がしたよ……。だが話しかけたお前は、僕や妻のことなど少しも覚えていなかった。そうだ、忘れていたんだ! 都合良く! 自分のいいように記憶を改ざんして!」 医師「お、俺は……!」 患者「待て、逃げるな! 殺してやる! 復讐してやる!」 医師「く、来るな!」 医師「あ……」 患者「……」 医師「お……お前がいけないんだ! ほ、包丁を持って襲ってくるから……!」 患者「……」 医師「に、逃げないと……! 忘れないと……! あ、あああ……!」 女性「…………」 医師「……激しい動悸がすると?」 女性「はい、そうです。時々、立っていられないほど激しい動悸が」 医師「それは困ったものですね。しかし、一通り検査してみましたが特にあなたの健康状態に悪いところは見受けられませんでした」 女性「そうですか」 医師「あるいは精神的な部分かもしれませんが……」 女性「……ところで先生、私の顔を見たことはありませんか?」 医師「いいえ? 初対面ですよね」 女性「ええ、そうです」 医師「ふふ、あなたのような可愛らしい方は一度見て忘れられるようなものじゃありませんよ」 女性「ありがとうございます」 女性「実は私、ある店の日替わり定食を食べた帰りに必ず動悸がするのですが……」
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