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8月5日
乗ってきたのは、女性だった。
目元に力を入れたメイクは若々しいというより幼く、身につけたワンピースは上品な水色をしていた。
男性に会うのだろう。人間観察は苦手じゃない。お団子にして余った横毛をカールさせるにも手間がかかるのだと、いつかのお客がぼやいていた。てっきり夜の商売の髪型だと思い込んでいたが、そうでもないようだ。
「今日はどちらへ」
予想通り。唇が紡いだのは、若者で賑わうテーマパークだった。
ただ、思っていた以上に落ち着いた声音をしていた。深夜に派手な格好をした若者を乗せる方が多い分、しっかりしたお嬢さんに見えた。
用件に答えただけのソプラノは、若い女性にふさわしい爽やかさを伴っていた。
無言の間が息苦しくないのは、よく晴れた青空の下、流れる景色が華やかだからだ。
「タクシーの運転手さんって、もっとお話するのかと思ってました」
「ああ、よく言われます。最近はそういうの、嫌がる人も多いんで」
やはり、浮かれているのだろう。支払前に言われることが、10分も経たずに出てきた。
「ああ、それで」
女性が手に取ったのは、我が社が独自で作ったオプション表だ。
①世間話
②聞き役
③飲食・観光案内
④無言
もちろん全て無料で、客が選択しない以上運転手から話題を振ることはしない。
1番を選択されたので、まずはこの表から話すことにした。
「実はこれ、うちの倅が考えましてね。小学校の社会の授業でしたっけ」
先生に褒められたのがひどく嬉しかったらしくあまりに自慢するので、親まで誇らしくなった次第だ。こっそり自分の車に載せていたのが観光客を中心に好評を呼び、一時は地元ニュースにも取り上げられた。
「いいですねえ、家族」
「いやいや。お姉さんまだ若いんだから、焦らなくていいですよ」
うっかり口を滑らせてしまった。バックミラーには間抜けな男の顔が映るだけで、俯いた女性の様子は窺えない。
「すみません。今のは」
「いいえ、そう言っていただけるだけで。私もそう思って、恋愛は後回しにしてきましたし」
「そう...なんですか」
妻が今のやり取りを聞いていたら、「あなたは昔からデリカシーがない」などと眉をひそめるだろう。想像するのは容易だが、この雰囲気でのアウトプットはさすがにまずい。
「いざ恋愛をしようとすると、そこまでなんですよね。私って」
恋愛用の彼女なんですと、いささか刺激的な表現をした。
「恋人になって、何度かデートをして。言葉遊びのような駆け引きをして。でも、気付いたら熱心なのは私だけ。大事なものは何ひとつ任せてもらえないんです」
きっと、今回もそう。
見えてきた目的地を眺める横顔は、青くて危うくて切なかった。
自分を安売りしないことですよ。そうすれば、いつかきっと。
言葉にする前に、車が止まった。余計なことは言わずに、料金だけを受け取る。
「行ってらっしゃい」
車を降りた後の横顔は、わからなかった。
タクシーの日
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