エリザベス

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 ナナコは島根県の田舎に住む小学二年生の女の子だ。両親は共働きのため、学校の授業が終わった後は児童クラブで過ごし、やがて仕事を終えた母親が車で迎えに来て家に帰る。  その際、母親は何日かに一度、市の中心部にある三階建ての大型のスーパーに立ち寄る。買い物を済ますとナナコに少額のお小遣いを上げて、 「お菓子を買っておいで」  そう言って店内の椅子に一人腰を掛ける。家に帰った後に待つ家事に備えてのひと休みだ。  お金をもらうとナナコは一人で三階にある駄菓子屋へ行くためにエレベーターに乗る。これが二人で買い物に来た時のいつもの流れだった。  ある日、ナナコはいつもの様に母親にお金をもらってエレベーターの前に来た。しばらく待って扉が開くといつもとは違った景色が待っていた。中に制服を着た若い女性店員がいたのだった。  こんな田舎のスーパーにエレベーターガール?  しかしそんなことを思うにはナナコの年齢には早過ぎた。ナナコはいつもと違う雰囲気に戸惑いながらもエレベーターに乗った。  ナナコはエレベーターに乗って、その女性の後ろ姿をじっと見つめた。  その女性は全身紺色の制服を着ていて、背が高く、驚くほど美しい女性だった。制服も体の線にぴったりと合っていて、気品が感じられる。この田舎には余りにも不釣り合いな存在に見えた。  この時は客はナナコ一人きりで、エレベーターの中はこの女性とナナコだけだった。扉が閉まるとナナコは急に胸がドキドキして来た。こんなに美しい人をナナコは今までに見たことが無かった。  小さな帽子を頭に乗せ、その下に流れる綺麗な黒髪は後頭部でくるっとまとめられていた。そして首筋の白い肌との対比がナナコにはまぶしかった。どうやって髪を結っているのかな、そう思っているうちにエレベーターはすぐに一番上の三階に着いてしまった。  扉が開いてナナコが降りるとき、その女性はナナコの方を向いて優しく微笑んだ。真っ赤な口紅が彼女の美しさをより際立たせた。ナナコは全身がのぼせた状態になってしまい、ぎこちない動きで駄菓子屋へと歩き出した。  ナナコはほとんど何も考えられない状況で適当にお菓子を選んだ。帰りもまたエレベーターに乗るのだ。そう思うと嬉しさと緊張で体はふわふわとしていた。  そして買い物を終えたナナコがエレベーターの前で待っていると再び扉は開いた。中にはやはりあの美しい女性が、体を半分隠すように笑顔で端に立っていた。客はナナコとほぼ同年代の親子連れの客一組だけで、何か話しながらエレベーターを降りた。その後で彼女と目が合った。途端にナナコは何故か急に恥ずかしくなり、下を向いてそそくさと中に入った。  三階から一階まではあっという間だ。他に客はいなく、中は再びナナコと女性の二人きりだった。元々このエレベーターを使う客は少ない。二階と三階は主に衣料品や雑貨を扱っているが、あまり品揃えが良くなく、ほとんどの客は食料品を扱う一階しか利用しないからだ。  一階に着くと行きの時と同じように女性は降りていくナナコに微笑んだ。ナナコは嬉しかった。次来た時もいてくれるかな、そう思いながら走って母親のいる場所へ戻って行った。  ナナコの希望通り、それからはナナコがエレベーターに乗るときはその女性がいた。そして女性の方でもナナコに会うのが嬉しいようで、必ずその時はナナコに微笑んでくれて、時には降りていくナナコに小さく手を振ってくれたりした。  しばらくするとナナコの気持ちにも変化が出て来た。この状況に慣れて来たからなのか、ナナコはこの美しい女性に対して次第に緊張しなくなってきて、どちらかと言うと温かい、優しい気持ちになった。  あの女の人になんとか自分の好意を伝えたい、そう思ったナナコは、ある時お菓子を買ってエレベーターに乗り、扉が閉まり動き出したタイミングで彼女に買って来たお菓子を一つ差し出した。 「私に?」  驚いた女性は思わずそう声を出した。初めて聞く彼女の声だった。 「たべてください」  ナナコははっきりと言った。女性はお菓子を受け取った。その時なぜか女性の手が少し震えているように見えた。そして次の瞬間、女性は顔を伏せてしまった。その姿を見てナナコはびっくりしてしまった。何か自分が悪い事をしてしまったような気がした。 「ありがとう」  かすれた小さい声でそう言うのをナナコは聞き取ることが出来た。その時エレベーターは一階に着いて扉が開いた。ナナコはそのままエレベーターを降りて振り向かずに母親の元へ向かった。そうするのが一番良いのだろうと本能的に思ったからだった。  ナナコが降りた後、乗る客はいなく扉は閉まり、女性は一人になった。エレベーターが再び動き出すと、彼女はかぶっていた帽子を取り、続いて上着も脱いだ。そしてナナコに貰ったお菓子をじっと見つめた。すると涙がとめどなく流れて来た。  彼女はエレベーターガールの恰好をしていただけ。実際にはただの客の一人に過ぎない。ナナコが来るこの時間にだけやって来て、そのふりをしていたのだ。出来るだけナナコに怪しまれず、そして何度もナナコに会いたい一心で。  今のナナコの母親は二人目の母親である。彼女はナナコの生みの親だった。東京から嫁いできた彼女は田舎の生活になじめず、ナナコが一歳の時にある男性と不義をしてしまい、それが原因で離婚。親権を取ることだけでなく、娘と会う事すら許されなかった。夫は田舎の代々続く厳格な家の長男だった。  彼女は一度土地を離れたが、どうしてもナナコの事が忘れられず、こっそりと戻って来てはナナコの周辺を調べ始めた。そしてこのスーパーで少しの時間一人きりになることを突き止めたのだ。彼女が頭をひねって何とか考え出したのが、ナナコが来るその時間だけ店のエレベーターガールになりきることだった。  娘に会えて嬉しかった。ばれたら大変なことになると分かっていながら、でも止めることが出来なかった。しかしナナコに貰ったお菓子を握りしめて彼女は決心した。 「これで終わりにしよう」  ナナコがたくましく成長しているのを実感できたから。  それ以来、彼女はナナコの前に姿を現す事はなかった。  それから八年後、中学卒業を機にナナコは実の母親と会う機会を持つことを許された。自分に母親がもう一人いることは十歳の時にはじめて知らされた。  二人は会った。ナナコはその顔を見てすぐにあの時エレベーターの女性だと気付いた。彼女の方はナナコの成長に驚き、そしてナナコに謝罪した。彼女はナナコに貰ったお菓子をまだ大切に持っていて、それをナナコに見せた。まだ封がしてあったそのお菓子を見て、今食べたらどんな味がするのかな、と二人は笑い合った。    彼女は今、東京で暮らしていると言う。母娘は年に一度だけ会う。関係は良好のようだ。 終  
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