Farewell Day

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Farewell Day

 結婚式の前夜は家族で過ごすというのが、バックマン家のしきたりだった。クラウスもまた、レナードの両親から、ぜひ来るようにと強く言いつけられていた。  彼らは息子とクラウスの関係をどこまで察していたのだろう。仲が良すぎると苦笑いでからかわれることは日常だった。レナードは平然と、仲がいいのは当然だろうと返して、クラウスは迷った末にただ微笑んで済ませていた。  それでも、やっと身を固める息子にさぞかしホッとしていることだろう。  身支度を済ませたクラウスは、準備していた花束を抱えアパートの玄関を出た。往来の通行人が揃ってこちらを振り返る。その視線に柔らかな笑みを返すと、クラウスは迎えの車に乗り込んだ。  見慣れた街並みを抜け、車は真っ直ぐにレナードの屋敷へと到着した。息子に屋敷を譲った両親も、新しい住まいから駆けつけている。  リビングではいつかと同じ、幸せな家族の縮図が描かれていた。 「おめでとう」  大きな花束をレナードに手渡す。抱き合って頬にキスをし合うと、そのまま向かいに座っていた両親に笑いかけた。 「アレン、マーサ。お久しぶりです」  数ヶ月の無沙汰を詫び、また結婚の祝いを述べる。 「クラウス。どうしてアパートなんかに引っ越したんだい? 言えば屋敷を準備したのに」  半分ほど白髪の交ざった頭を振り、アレンが口を尖らせる。 「私などがひとりで住むにはもったいないですよ」  一八区のアパートでさえ、ひとりで住むには広すぎるのだ。その控えめな辞退を逆に受け止めたのか、アレンがにわかに力説を始めた。 「君は充分屋敷を構えるに値する男だよ。この先、家族を迎えるにも、屋敷があって損はないだろう?」  明日、息子が結婚する。もうひとりの、息子同然のクラウスの幸せも心から願ってくれている。屋敷をプレゼントするという、いささか度の過ぎた申し出も、アレンの資産からすれば大したことじゃない。 「けど、広い家にひとりでいるのは寂しいですから。一緒に暮らす人ができたらアレンにお願いにいきます」  暗に家族になるような相手もいないと含ませて、クラウスは視線をレナードに向けた。ジャケットの内ポケットに入れてきた白い封筒を取り出す。 「私にしかできないプレゼントはなにかと考えたんだ」  差し出した封筒をレナードが受け取る。首を傾げた指先が、封のされていない封筒に差し込まれた。そこには折りたたまれた数枚の――。 「楽譜?」  レナードがその紙を広げる。 「その曲を、レナードの未来に贈るよ。君には難しいかも知れないから、いつか君の家族に弾いてもらうといい」  シュティフィ嬢も教養としてピアノに触れているだろう。いつか二人のあいだにできた子どもが弾けるようになるかも知れない。 「そして、いつか私にも聴かせて欲しい」  うまく笑えたとホッとした。だけど、レナードには見えていないだろう。レナードの目はジッと楽譜に注がれ、その指先はわずかに震えていた。 「クラウス、ありがとう。だけど、俺がまた練習をがんばって弾けるようになる可能性だってあるだろう?」  レナードが軽く口の端を持ち上げる。マーサがそんな息子に吹きだした。 「レナードったら……あなたちっとも練習しなくて、先生に怒られてばかりだったのに」  幼いころを思い出したのか、今さら練習するだなんてと笑われる。アレンも微笑ましく息子を見ていた。  そんな両親に向かって、レナードはといえば「だったら、弾けるようになったらホールを貸し切ってリサイタルを開くから」なんて大きな口をきいている。リビングが笑いに包まれた。  リビングのバーカウンターには、料理長が準備してくれたたくさんのオードブルが並んでいる。給仕の必要のないメニューは、家族水入らずでという心遣いだろう。  和やかな時間は、まるで幼いころに戻ったかのようだ。だけど、あの頃と違うのは、この時間がクラウスにとって今日限りだということだ。 「さて、我々はそろそろ休むとしよう」  アレンがマーサを伴って立ち上がった。 「レナードもあまり遅くならないようにね」 「クラウスはどうするんだ?」  泊まっていくのかというアレンの問いに、首を振りかけたところでレナードが割って入った。 「今夜は二人で語るんだ。あたりまえだろう?」  独身最後の夜なんだから。片目を瞑ったレナードに、マーサが呆れた顔を向けた。 「まるで、あなたがお嫁に行くみたいね」 「二日酔いの花婿では格好がつかないぞ」  おやすみ。笑いながら二人が部屋を去った。足音が遠ざかりリビングに静寂が満ちる。 「レナード。私はいったん帰るよ」  明日の演奏の準備もあるから。そうつぶやいたクラウスを、寂しげな目が引き止める。 「なんで、こんなものを寄越したんだ……」  レナードの手には、真っ白な封筒が握られている。 「言っただろう? 私はレナードの幸せを願っている」  この世界の誰よりも幸せになってもらいたい。 「クラウス……おまえのいない幸せなんて……」  幸せなんてない――レナードが吐き捨てた。  自分も同じだ。そう傲慢に叫ぶことができたら、どれほどよかっただろう。それでも、レナードはバックマン家を背負っていく男で、その責任を捨てることなど許されない。クラウスだって、捨てさせたくはない。 「レナード。私を愚か者にするつもりか?」  妻子ある男の愛人などという不名誉を背負わせるのか? 意地の悪い問いかけに、レナードが唇を噛んだ。 「俺を愛していると言ったくせに」 「愛しているよ。今でも」  これからも。  驚くほど穏やかでいられることに、内心呆れていた。自分はなんて残酷な人間なのだろう。もっと優しく離れてやることもできたのに。 「だったら! なぜ言ってくれないんだ!? 愛しているなら一緒に……っ」  一緒にいたいと言ってくれさえすれば。呻いたレナードがその場に崩れ落ちた。 「なにもかも捨てて、逃げてしまえるのに」  そんな甘美な誘いをしないで欲しい。逃げた先に幸せなんか存在しないと分かっていても、その手を取りたくなる。その手を取ればなんとかなると、そんな夢物語を信じたくなる。  レナードを説得する言葉が見つからず、クラウスはリビングの角に置かれたピアノを開いた。指先を静かに鍵盤へと下ろす。小さく息を吸い込んで、その指先を鍵盤に走らせた。  軽やかなメロディが流れ出す。ベートーヴェン、ピアノソナタ第八番、悲愴。それは、タイトルとは真逆の朗らかさで始まる。  スピード感溢れる第一楽章から、穏やかに想いを馳せる第二楽章へ。  リビングの床に座り込んだレナードは動こうとしない。  クラウスはワールドツアーのラストをこの曲で締めた。それはレナードが言ったとおり意外だと思われただろう。  だけど、今ならわかる。それは、クラウスの心の奥底で混ざり合った想い出の欠片だ。吐き出すことができなくなった、愛しい記憶だ。  ひたすらに楽しかった始まりの日々から、穏やかでなにものにも邪魔されることのない愛に溢れた日々――それから。 「止めろ!」  レナードが叫んだ。  曲はまさに第三楽章へと進んだところだった。ポロンと止めきれなかった音の残滓がこぼれる。 「それ以上は弾かないでくれ」  座り込んだレナードは俯いていた。  クラウスの心は、レナードに駆け寄り、大丈夫だと抱き締めた背中を撫でる。だけど、現実のクラウスはピアノに座ったまま動けずにいる。 「私は……ピアノでなら、うまく自分を表現できるんだ」  焼け付くような情熱も、狂おしいほどの激情も、泣きたくなるほどの切なさも――。  そして、レナードはそんなクラウスの叫びをいつだって聴き取ってくれる。 「だったら、どうして……」  どうして、どうして。レナードが何度も呻く。  どうしてなのだろう。ただ、クラウスは逃げるレナードなんか見たくなかった。捨てた責任に後悔する姿を見たくなかった。それは、きっとクラウスからの愛情だけでは埋めることは叶わない。  愛してる。  音のない、唇の空虚がそう想いを綴る。  愛してる。  だけど、愛してくれなくていい。  ただ、いつかの熱を、安寧を、ときに思い出してくれればいい。 「それじゃあ、私は帰るよ。明日は最高の演奏を聴かせるから」  俯くレナードにそう告げて、クラウスは立ち上がった。声に出さなければ、いつまでも未練が身体を縫い付ける。  このまま、明日なんてこなければいいと願ってしまう。  リビングを横切り、ドアに手をかけた。 「クラウス!」  振り返った瞬間、乱暴な身体がドアに押し付けられた。 「レ、ナ……――」  そのキスにはあらゆる愛が詰まっていた。  そのキスにはあらゆる(えん)()が込められていた。  愛しくて、愛しくて、まるで半身をもがれるような痛みに抱き合う。  最後のキスは、死ぬんじゃないかというくらい長く、苦しかった。  こぼれ落ちた涙が混ざり合う。  愛してる。  背徳を心の奥底で押し潰し、キレイな上澄みを身に纏う。 「おやすみ……よい夢を……」  レナードを押し返し、部屋を後にした。誰もいない廊下が、この世のすべてに感じる。ここから先は、ひとりだ。
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