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三章『切り札』
自分以外、誰もいない千羽堂の店内で、センバは何をするでもなく、テーブルを前に座っていた。何もする気が起きなかった。大学受験、資格試験の直前のような気持ちに近い。いや……あれよりは幾らか、穏やかな気持ちかもしれない。
不思議と、恐怖心は薄まってきていた。長い時間異常な状況に身を置いていたから、麻痺しているだけなのかもしれない。
禊屋は、いつ来るだろうか。今日、明日? いや、次の瞬間には店に入ってくるかもしれない。奴はきっと、今度こそ本気で俺を仕留めに来るはずだ。負けたくない、いや負けるわけにはいかない。勝って、生き延びなければ、殺した意味がない。
「やれんのかよ、本当に」
「っ……!?」
背後で声がして、驚いて振り返る。そこには目を疑うようなものが立っていた。
「か、カワラ…………?」
「よう。元気してたか。って、元気なわけねぇよな、ハッハッハ!」
記憶通りの豪快な笑い方をしながら、カワラはセンバと向かい合ってテーブルの椅子に座る。
「なんだ……何が起こってる……?」
「んーなんだ、お前の夢っつーか……幻覚? ま、そんな感じのやつ」
「幻覚……? じゃあ、お前は本当はいないんだな」
「そりゃそうだろ。お前が殺したんじゃねーか」
「そう、だよな……」
とうとう幻覚まで見出したか……。相当、堪えているな、俺も。
「死人が今更、何をしに出てきたんだ。俺を責めるためか?」
「いーや? そんなん興味ねぇや。責めたとこで生き返れるわけじゃねーし。ってか、今はお前のほうが死人みてーな顔してるけどな」
「じゃあ何のために」
「何だっていいじゃねぇか。昔はもっと、何でもないような話してたぜ?」
「……記憶にないな」
「忘れてるだけだろ。学生の頃とかさ。まあ、殆ど俺ばっかり喋ってたからな。お前いっつも興味なさそうにしてたし」
「……憶えてないよ」
「しょうがねぇな。じゃ、あれは? 教室で昼飯食ってる時にパッキーがギャグ百連発とかやりだしてよ、みんなややウケって感じだったのに、急にお前がツボって飯吹き出したの!」
「思い出話なんてしたくない」
「そうかよ。ったく、相変わらずつれねーなぁ」
カワラは呆れたように両手を頭の後ろに回し、天井を仰いだ。まだ、幻覚は消える気配がない。
「……お前、なんで俺につきまとってたんだ?」
何をしているんだ、俺は。幻覚に訊いたって何の意味もないだろ。
幻覚のカワラが答える。
「そりゃお前、めっちゃ変人だったからな。近くで見てるだけで面白かったぜ。まぁ他の奴らに聞いたら、俺も変わってる方だったらしいけど」
「だろうな……」
「……でもあれはビビったぜ。お前がリサイクルショップでバイトしてるっていうから様子見にいったら、クラスメイトが死んでるんだからよ」
「……あいつが悪いんだ。学校で嫌がらせしてくるだけならまだしも……あんなひどい……」
「他に客はいなくて、店主も留守中だったのはラッキーだったよな。俺とお前の二人で死体を運び出して……それから……超大変だった」
「……ああ」
他の誰にもバレなかったのは、奇跡的なことだったと思う。ましてやカワラの協力がなければ、どうしようもなかった。
「それで終わりなら良かった。でも、俺にとっては地獄の始まりでしかなかった。お前に、金をたかられ続ける地獄の」
「だーもう、悪いって思ってるよ。でも最初はさ、お前だって憶えてんだろ? 俺が事故っちまって相手の…………でもそれで一度簡単に金が手に入っちまったら……つい甘えちまうんだよ。俺はそんなに我慢強くねぇの」
「…………」
「悪かった、マジで。お前がそんなに追い込まれてるなんて気づかなかったんだ」
カワラはテーブルに両手をついて頭を下げる。
「……もういい。やめろよ」
「えっ?」
「お前は本当のカワラじゃない。俺の中の記憶を、都合良く切り貼りしてでっち上げただけの嘘の幻だ。本当のお前はもっと邪悪な人間だった。友達だなんて口では言っていたが、俺のことは利用して奪うだけの存在としか見ていなかった」
「…………」
カワラはこちらをじっと見つめて、やがて弱々しく苦笑した。
「……そう思うか? …………ま、そうなのかもしれんなぁ」
そして椅子から立ち上がる。背伸びをしながらこちらに近づいてきて、
「さて……幻がいつまでもうろちょろしててもうぜーだろうし、そろそろ消えとくわ。……センバ」
幻の手が、俺の肩を叩いた。
「ま……せいぜい頑張れや。今度は助けてやれねぇからよ。せっかく俺を殺したんだから、情けねぇ負け方はするんじゃねぇぞ」
――目が覚めたという感覚はあったが、景色は変わらなかった。ただ……幻はもう見えなかった。
ドアベルが鳴る。……来たか。
ドアが開いて、赤い髪の探偵――禊屋が姿を現した。
センバは椅子から立ち上がり、禊屋と向かい合って立つ。
「私を負けさせるための準備は出来たんでしょうね?」
「……もちろんです」
その言葉の力強さで確信する。禊屋は確かに切り札を手に入れてきたようだった。
いいだろう。受けて立つ。
「では最初に聞かせてもらいましょう。ソノダさんとカワラを殺したのは、どう見てもアユミ以外に考えられない状況だったはずです。アユミの部屋で見つかったという数々の証拠がそれを物語っている。その上でなお、私を犯人だと言うんですね?」
「そうです。ソノダさんもカワラさんもアユミさんも、全員、あなたが殺しました」
「具体的に教えてほしいものですね。私が彼らをどうやって殺したと?」
「最初の殺しは、ソノダさんでした。現場はこの店内。それを示す証拠も見つかっています。ソノダさんの右足の靴底についていた、陶器の欠片です。おそらくここでソノダさんとあなたは揉み合いになり、そこの、あなたのコレクションの幾つかを床に落としてしまった。その時、そこに飾ってあった花瓶が割れ、その破片をソノダさんが踏みつけたと考えられます」
禊屋はスマホで撮影した靴底の写真を見せてくる。確かに、白い欠片が付着していた。やはり見つけていたのか。だがそれくらいはもはや驚くことでもない。
「その付着した欠片が、うちで割れた花瓶だと証明することが出来るんですか?」
「……残念ながら、それは出来ません。でも、あなたが花瓶について嘘をついていたということはわかっています」
「なんですって?」
「あなたは昨日言いました。花瓶は昨日――すなわち今から数えて一昨日の朝、掃除をしていた時に割れたと。でもそれは嘘だ」
「何を根拠に?」
「アユミさんの証言があるんですよ。アユミさんは昨日の朝、あなたに怒鳴られてしまったそうですね?」
「……一体、誰からそんな……ああそうか。あの時の電話の相手ですね?」
よく聞き出したものだ。
「そう、その時アユミさんが電話していた彼女の友人から聞いた情報です。アユミさんは商品の花かなにかに触れて、怒鳴られたらしいと言っていました。この店で商品とされているものは全てショーケースの中に入っていますから、触ることができて、そしてそれがあなたの怒りを買うとしたら、それはここに並んだあなたのコレクションのどれかのはずなんです。でもここに花なんてない。アユミさんが来た時にはあったけど、夜、あたしがこの店に来た時にはなくなってるんです。花は花瓶に挿してあったはず。そして、アユミさんが来た時にはもう朝の掃除も終わっていたとあなたは言っていた。掃除中でもないのに、いったい何があって花瓶を割ることになったんですか? それに、なぜそんな嘘を?」
「……簡単なことです。実はアユミが花に――造花だったんですが、それに触ったことで、花の向きがおかしくなっていることに後になって気づいたんですよ。それで直してやろうと思って触ったら、うっかり花瓶ごと傾けて落としてしまったんです。割ったのが一昨日の朝だと嘘をついたのは、単にあなたに怪しまれるのが怖かったからです。あの時のあなたは妙に迫力があったものですから……ま、今ほどではないですが。そういうことですから、もしもソノダさんの靴底に付着した花瓶がうちのものだったとしても、ソノダさんが来店時に偶然踏みつけただけで、彼の殺害には一切関係がありません」
まだまだ、この程度の追及に屈してやるものか。
対する禊屋も、未だ余裕といった様子だ。
「そうですか。ご心配なく、これであなたを仕留められるとはあたしも思っていません」
「それは素晴らしい。次はどんないちゃもんを付けてくれるんですか?」
「ひとまず話を先に進めさせてください。ソノダさんを殺したあなたは、死体を彼の車に乗せて『江ノ神レジデンス跡』まで運びました。工事用フェンスで囲まれ、人気も少ないあの場所は犯行にうってつけだったからです。そこで、あなたはカワラさんを電話で呼び出した。あなたは昨日、ニット帽の忘れ物があると連絡したと言っていましたが、本当はカワラさんを現場に呼び出して殺すための電話だった」
「証拠も何もない。ただの与太話だ」
「だったらもう少し黙って聞いていてください。不安がる必要はありませんよね? これから面白くなるかもしれませんよ?」
「ふん……」
生意気な……。だが確かに、証拠がなければ恐れる必要はない。
「カワラさんを現場に呼び出したあなたは、ソノダさんの銃を使って彼を射殺した。そして、カワラさんのダガーナイフを刺し直すなどの偽装工作を施した。これらは、ただ相討ち殺人に見せかけるための工作ではなく、『それらを仕込んだのがアユミさんだと思わせるため』の工作だった。相討ち殺人が見せかけであると見抜かれることまでが前提の計画だったんです」
その通りだ。現場から失くなった金品、そして真の凶器である折り畳みナイフをアユミの部屋で発見させることで、彼女が犯人だと結論付けさせる計画。
「あなたは、アユミさんに全ての罪を被せた。そしてアユミさんが良心の呵責に耐えきれず、自殺したかのように見せかけた上で殺した。昨日の夜、あなたはあたしに、アドバイスでもするようにアユミさんに話を聞きに行ったほうが良いと言いましたが、あれは誘導だったんですよね。アユミさんの死体を早々に発見させて、事件を望んだ形で終わらせるために」
「人の厚意をひどい言い草だ。アユミのことは私が説明しなくとも、カワラのことを調べていればいずれたどり着いたでしょう。むしろ、知っている私がそのことを黙っていたほうがずっと怪しいと思いますが?」
「まぁ、あなたはそう言うしかないでしょうね。でもあなたが怪しい点なんて他にいくらでもあるんですよ。あなたはアユミさんを殺しに行く前、彼女が家にいることを確認するために、事前に電話をしました。通話履歴が残ることを気にして、カワラさんの電話を使ったんですよね?」
「そんなまさか」
「でも、一つ誤算でしたね。あなたは話があるとか言って、これから家に行くことをアユミさんに伝えたんでしょう。あなたはアユミさんが大人しく家で待っていると思ったけれど、それは違った。アユミさんはあなたのために、コンビニで缶コーヒーを買ってあげていたんです。それが昨日見せたレシートです。自分が家で飲む用の1.5リットルの微糖コーヒー、そして、客人に出す用のブラックの缶コーヒーだと考えれば問題ない。そしてこの缶コーヒーはアユミさんの部屋のどこにも見当たりませんでした。アユミさんを殺した犯人が持ち帰ったんでしょう」
「ふっ……ではどうします? 家宅捜索でもして、私の部屋に缶コーヒーが隠してあるのを見つけ出しますか?」
「大変素敵な提案ですが、お断りします。そんなことしなくても、あなたを倒せますから」
禊屋は不敵に微笑んでみせる。
「ところで……あなたは知らなかったんじゃないですか? カワラさんにとって、あのダガーナイフがどんな代物か」
「はぁ? ……それが何か?」
「あのダガーナイフは、カワラさんが旅行先で見つけたもので、一目惚れして買ったものなんだそうです。とても大事にしていて、手入れは欠かさず、そして一度も使ったことがなかったとか」
「一度も……?」
「そう、ナイフとして使ったことは一度もなかった。カワラさんにとってはそれだけ大事なものだったんです。あたしがあなたのコレクションを理解出来なかったのと同じように、あなたにとっては、使われないナイフなど理解が出来ないのかもしれませんが」
「何が言いたい? はっ……はは、まさか」
センバは苦笑を浮かべた。
「まさか、その事実をアユミは知っていたはずだから、彼女がソノダの首にダガーナイフを刺すはずがないと言いたいんですか? カワラが殺したように見せかける必要があるのだから、彼が大事にしていたダガーナイフを使うのはおかしいから、と? それはお笑いですよ、禊屋さん。アユミが見せかけようとしたのは、緊迫した状況――相討ち殺人というシチュエーションなんですよ? いくらカワラがナイフを大事にしていたとて、自分の身に危険が及んだら身近な武器を使うでしょう。あの状況でダガーナイフが使われていたのは何もおかしくない。それがあなたの切り札なら、残念ながら――」
「勘違いしないでください」
禊屋は冷然として言った。
「ダガーナイフを使うのがおかしいだなんて、そんな話はしていませんよ、あたしは。でも……あなた良いことを言いました。『自分の身に危険が及んだら、大事にしていたとしても身近な武器を使う』。まさしく、その通りだと思います」
「…………あぁ?」
「最後のギリギリまで、わからなかったことがあります。それは、ソノダさんが死んだ時、右手に握り込んでいた何か。犯人は硬直した右手を無理に開いてまで、その中のものを回収しています。だからあたしは最初、それは犯人にとってよほど致命的な証拠なのだろうと思いました。例えば、犯人が身につけていた衣服のボタンだとか、イヤリングだとか、見つかれば即、犯人の正体と繋がってしまいかねない証拠。確かに、ある意味ではそうだったと言えます。その答えに辿り着くには、発想を逆転させる必要がありましたけどね。発想を逆転、つまり――」
そこまで言って、右手の指を鳴らす。
「『犯人が回収しなければならなかったもの』ではなく、『被害者が奪わなければならなかったもの』を考えるんです。あたしの考えでは、ソノダさんと犯人はこの店内で揉み合いになった、その際に、花瓶が割れてしまうほどの激しい争いでした。犯人が武器を持って襲いかかってきたら、ソノダさんはどうしたでしょうか? 当然、抵抗したはずです。そして何より先に考えるのは、犯人の無力化――そう、『武器を奪う』ということです」
「ッ…………!!」
心臓が大きく拍動する。そうか……それに気づいていたのか。
「ソノダさんは犯人に掴みかかり、武器を奪い取った! ほっと一安心したことでしょう。しかし、逆にピンチに陥ったのは犯人だ。武器を奪われてしまえば、為す術がない! そして、犯人は見つけたんです。状況を打破する唯一の手立てを! 犯人はそれを武器にして、ソノダさんの首筋に突き刺した!」
禊屋が、凶器を逆手に握った右手を振るジェスチャーをする。
「そう……ソノダさんを殺害した真の凶器は、カワラさんのダガーナイフでも、アユミさんの部屋で見つかった折り畳み式ナイフでもない! 『もう一本の剣』が存在したんです」
「…………」
「では、その真の凶器とは、何か?」
禊屋は、ゆっくりと歩き出す。一歩、一歩と『それ』に近づいて……そして、止まった。それは、センバのコレクションの一つ――振り子式の置き時計だった。
「あたしが昨日初めてこの店に入った時、この時計の文字盤は、10時10分を指していました。今もそうですよね。ゼンマイが切れているので動かないし、あなたは一昨日の朝久々にケース内の掃除をしたと言っていた。だから少なくとも、一昨日の朝からはずーっと、同じ時間で止まっているはずなんです。アナログ式の時計なので、10時10分は見ての通り、短針が10、長針が2の数字を指す形になります。でも、昨日の朝、この10時10分とは違う時間を見た可能性のある人がいたんです」
「な……なんだと?」
「アユミさんです。彼女は友人の方と、一緒にコンサートに行く約束をしていました。その一般チケットの予約が始まるのが昨日の朝10時から。アユミさんはその友人の方の分も合わせて予約を取るという約束をしていました。ですが、忘れっぽいアユミさんのことを心配して、友人の方が電話をしてきた。チケットの話をすると、アユミさんはこう言ったそうです。『あっ、もうすぐ予約開始だね』と」
「…………」
「その友人の方が電話をかけてきた時間は、10時15分。アユミさんのスマホの履歴にも残っているので間違いありません。そう……もうとっくに予約開始時間の10時は過ぎていたんです。それなのに、アユミさんはまだ10時になっていないと勘違いしていた。彼女が予約開始時間そのものを間違えて覚えていたのでなければ、『まだ10時になっていない』と思うような何かを見たはずなんです。この店の中で、時間に関係するものは二つしかない。一つは入り口ドア上の壁掛け時計。でもあちらは電波式なんでしょうか、あたしが初めてこの店に来たときもスマホの時刻表示とまったくズレがなかったので、あの時計を見て勘違いすることはないでしょう。もう一つがこの壊れた置き時計。『もうすぐ予約開始だね』、もうすぐというのは、個人の感覚で差はあるでしょうが……」
禊屋は時計のケースを開き、文字盤上の長針を指でずらしていく。
「例えば、こんな時間だったんじゃないでしょうか?」
短針が10の手前、長針が10の位置に移動させる。
「時間で言えば9時50分前後ってところですか。この時計が壊れていると知らなかったアユミさんは、その時間表示が正しいと思ってしまったんです。10時10分の状態を見て、『まだ10時になっていない』と思うはずはない。大事なのはアユミさんは電話をしていた時、違う時間を見たということです。ではなぜ、アユミさんが電話をしていた昨日の朝と、あたしが店に来た昨日の夜とで、時計が示している時間が違うんでしょうか? それは……」
禊屋は、時計の長針を引き抜いた。それを右手で逆手に握る。それはまさに、短剣のように見えた。
「犯人がこんな風に――時計の長針をソノダさんを殺すための凶器として使ったからです。犯人はソノダさんに武器を奪われ、咄嗟に、キャビネットから落ちてきたこの時計の長針を引き抜いて、緊急の武器とした。結果、この針はソノダさんの首筋に刺さり、彼を死に追いやった。余計な出血を防ぐために針は刺したまま『江ノ神レジデンス跡』まで死体を運び、アユミさんへ罪を被せるための偽装工作を施しました。針を抜き、偽の凶器その1である折り畳み式ナイフを刺し、傷口を抉って荒らした後、抜く。それから、偽の凶器その2であるカワラさんのダガーナイフを刺したということになります。時計の針という凶器による特徴的な傷の形状を、この偽装工作の流れによって誤魔化したのは、お上手でしたね。抜いた針は持ち帰り、綺麗に洗浄した後で、時計に戻しておいた。しかし、その時に針の位置が朝の頃とズレてしまった。まぁ、何か意味のある時間だったとかでもなければ、気にすることもなかったでしょう。
さて、少しだけ時間を戻して、犯人がソノダさんの殺害を終えた直後のことです。犯人にとってマズいことに、ソノダさんは犯人から奪った武器――例えば、あの折り畳み式ナイフだったとしましょう。ソノダさんは折り畳み式ナイフを強く右手に握り込んだ状態で死んでいた。死亡時のショックで右手が硬直していたけれど、それでも犯人はそのナイフを回収しなければならなかった。相討ち殺人に見せかける関係上、左手に銃、利き手である右手にナイフでは狙いがボヤけるし、何より、『犯人が武器を奪われたという事実』に気づかれてしまう恐れがある。それの何がマズいって、連なって、犯人がその場にあるものを凶器として代用したことがバレるリスクがあるってことです。それがどこにでもあって、簡単に捨てられるようなものであれば大した問題ではなかった。しかしその凶器は、他人にはどうでもいいようなものだったとしても――少なくとも犯人にとっては確かに大事なものだったが故に、捨てることは出来なかった。そうですよね、センバさん」
禊屋は手に持った長針を顔の前で掲げて言う。
「この時計の針を調べれば、ソノダさんの血液が検出されるはずです。それで、この事件は終わり。…………どうでしたか、センバさん。これがあたしの切り札です」
「……………………はぁ」
センバは力尽きたように一際大きく息を吐いた。そして、かぶりを振りながら両手を開くように上げてみせた。
「…………お見事。私の、負けだ」
「…………はい。どうも」
禊屋は掲げていた腕を胸の前まで下ろすと、驚くほど丁寧に頭を下げた。つくづく、不思議な女だ。
……終わった。ケチのつけようがない、負けだ。急所を見抜かれてしまったのだから、それはもう、認めざるを得ない。
「……私の店と、愛着のあるものたちを守れればそれでよかったはずなのに。どうしてこんなことになってしまったのかな……」
禊屋は何も言わない。俺が答えを欲しているわけではないと察してくれたのだろう。
「……私はどうすれば?」
「外で、あたしの仲間が待っています。そちらへ」
「わかった」
もはや語ることもあるまい。敗者は潔く去るのみ、だ。
センバは入り口のドアに向かって歩き出し――しかし、ふと思い留まった。振り返って、禊屋に言う。
「――禊屋さん。最後に一つ、お訊きしてもよろしいですか?」
禊屋は何も言わず、頷く。
「探偵さんの目利きで評価して、私の殺人は……どうでしたか?」
禊屋は人差し指を眉間に当て、考える素振りをしてから――やがてその手をパッと開いて言った。
「――鑑定士に、殺しは似合いません」
センバは満足気に笑みを浮かべて、ゆっくりと頷く。それから、先導するように禊屋が開けてくれたドアをくぐって、そちらへ向かった。
終
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