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二章『紅き探偵の洞察』-3
ナイツ夕桜支社があるビルの地下三階、エレベーターで隠しコマンドを入力しなければ入れないフロアにアリスは住んでいる。居住スペースであると同時に、彼女の作業場でもあるのだ。
乃神はその部屋の前に辿り着くと、彼女の部屋専用で取り付けられているインターホンのボタンを押した。
「乃神だ。仕事を持ってきた。開けてくれ」
しばらくしてから、返答があった。
『やだ』
それだけ言って切れる。乃神はため息をついて、もう一度ボタンを押した。
「ココア缶とケーキもある」
少し待ってから、返答があった。
『仕方ないわね』
ロックが解除される音がしたのを確認してから、乃神はドアを開けた。
部屋に足を踏み入れると同時に、乃神は顔をしかめた。部屋の散らかり具合に呆れたのだ。とくに多いのは本で、漫画本から高度な専門書までジャンル問わず平等に――あるいは混沌として、散乱している。菓子類の袋が次点で多く、その次が衣服といったところだ。
「おい。どうしてこんなに散らかってるんだ。この前掃除したばかりだろう」
「わかってないなぁ、さっくんは。人が生活してたらそこが散らかるのは当然でしょ?」
部屋の奥、モニターの前でゲーミングチェアに座っているアリスが言った。
「当然じゃない。散らかる前に自分で片付けろ。あとその呼び方はやめろといつも言っている」
乃神の名前、朔也(さくや)から来ているあだ名らしい。何度やめろと言ってもやめないので、もう半分諦めている。
アリスは14歳の少女だ。染めていない天然のブロンドに、蒼色の瞳を持つ。黙っていれば精巧な西洋人形のような美しさを存分に放ったことだろう。
「それより、例のもの、ちょうだい?」
アリスが期待に目を輝かせて、こちらに手を伸ばす。
「例のものって、仕事のことか?」
しらばっくれてそう言うと、相手は口を尖らせてかぶりを振った。
「……ほら」
コンビニの袋ごと渡す。
「やった!」
アリスは早速ココア缶に手を付けた。彼女は大の甘党で、とくにココア缶が好物らしい。そういえば禊屋も甘党だったが、やはり頭脳労働に極端化している人類は糖の必要量も上がるのだろうか?
「ところで、今何をしていたんだ? 作業の邪魔をしたのなら悪かったな」
「いや? ネットチェスで遊んでただけだから大丈夫よ」
「チェス?」
「そう。現在32連勝中」
「そんなに上手かったのか?」
「まぁレートシステムをハックして雑魚狩りしてるだけなんだけど」
「技術の活かし方がセコすぎる」
「私の技術なんだから私の実力のうちってことにならないかしら?」
「なるわけないだろ」
面倒事を起こさないのであればまぁいいが……。
アリスはココア缶をデスクに置いて、思い出したように言う。
「で、仕事ってなに?」
やる気を出してくれたようだ。やはり面倒なのはもので釣るに限る。
「このスマホのロックを解除してほしい」
カワラのスマホを見せて言う。
「なんだ、それだけ? 貸して。すぐ終わるわ」
アリスはスマホにケーブルを差してPCと接続すると、PC上で一つのソフトを立ち上げて動かし始めた。
「――はい、終わり。もう自由に開けるようになってるわよ」
「もう終わったのか」
1分もかかっていない。
「特殊なプロテクトのかかってない一般のスマホなんて全然ヨユー、このスーパーアリスならね」
「スーパーアリス?」
「私が作ったこのソフトの名前。解析から改造までなんでもいけます。イカしてるっしょ?」
「ん……ああ、そうだな」
「露骨に言葉を濁された!」
「とにかく感謝する。では雑魚狩りを続けてくれ」
スマホを開いて、中身を確認する。手がかりになりそうなものといえば、通話履歴あたりだろうか。最後の通話は今日の午後2時14分。相手は……これは、カワラの交際相手の女か。このスマホから発信されている。その一つ前が午後2時2分、例の質屋の店主だ。こちらは相手からかかってきた電話のようだ。明日の早朝、禊屋は女の家を訪ねるつもりらしい。大した情報ではないかもしれないが、一応このスマホ内の情報も共有しておこう。
「それって、お姉ちゃんの仕事の関係?」
アリスが尋ねてくる。彼女の言うお姉ちゃんとは、禊屋のことだ。
「ああ、そうだが」
「最近のお姉ちゃん、ずっと忙しそう。もっと調整してあげられないの?」
「……仕事を増やせと言っているのは、禊屋のほうだぞ」
「えっ、そうなの?」
「疑うなら本人に聞け」
「いや、疑っちゃいないけどさ……」
禊屋のことを心配しているようだ。もう用事は終わったので帰るだけなのだが、一応フォローくらいはしておくか。
「思うに、仕事をしているほうが気が紛れて楽なんだろう。お前も覚えてるだろ、例の事件が終わってからの奴の沈みっぷりを」
「うぅん……まぁね?」
去年の年末頃にあった大事件。その事件で、禊屋は相棒と別れることになった。歪んでいたものが本来あるべき姿に戻ったというだけのこと――禊屋は強がってそう言っていたが、相当堪えていたのは誰の目にも明らかだった。
「お前が心配せずとも、禊屋が無理しているとこちらで判断したら強制的に休ませるくらいのことはするつもりだ。……悲しさや寂しさを癒やすにはそれを別の何かで上塗りしていくしかない。禊屋はそれをやっている途中なんだよ。だから多分、今くらいでちょうどいいんだ」
「……さっくんにも、そういうことがあった?」
「さぁな。多かれ少なかれ、誰だってそういうことはあるんじゃないか。――じゃあ、俺はもう帰るぞ」
乃神はドアに向かう。後ろでアリスの声が聞こえた。
「うん。……ありがとね、さっくん」
乃神は無言で手を軽く上げて、部屋を出ていった。
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