斉森先生

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そう言えば、この先生は何度も、青年海外協力隊かなんかで海外に行ってたらしい。 うちの病院に来たのも、45過ぎてからだったな、と思い出す。 「老後は、大きな病院でのんびりしようと思って、ここに来たんですけどね」 7人いる内科の先生の中で、年齢的には上から3番目くらいだけど、中途入所だし、本人にその気がないのか、今も役職には就いてない。 ある程度の管理職に就くには、所内試験と上司の推薦がいる。 だけど、上からも順々に受けるように言われるので、今日子も年齢と供に昇進し、今は西病棟の看護師長だ。 斉森先生も、もっと若いうちに来ていれば、きっと今頃は内科医長くらいになっていてもおかしくない。 「良いところなんですよ。田舎だけど山が近いんで空気もきれいだし。  町が昔、観光用に整備したロッジが、診療所兼宿舎に改築されていてね。  お年寄りの通院や、子どものケガなんか、ちょっとしたことならそこで済むように作られた診療所なんですが、前に赴任してた医者が地元に帰っちゃって。もう2年くらい空いてるんです」 「そうなんですか。お一人で行かれるんですか?」 「もちろん。看護師は現地採用の予定ですけどね。まだ、見つかってないですが」 「じゃあ、もうそこの診療所にずっと住むと?」 「多分、そうなるでしょう」 先生は何でもないことのように言うけど、私はちょっと動揺してしまった。 入所の時から、同世代の人だと認識していたから。 お互いずっと独身で、今は病院の近くでひとり暮らし。 私と同じように、この病院で定年まで、もしかすると再雇用で65過ぎまで、普通に働くんだろうな、と勝手に想像していた。 「まあ僕なんか、ヒラの医者ですから、どこに行ってもやることは変りません。給料は減りますけどね」 そういって、冗談に紛らわせる。 「かなり下がるんですか?」 「まあ、今の3分の2くらいですかね。でも、家賃も掛からないし、米も町が支給してくれるし、物価も安いし、多分、生活には困らないと思いますよ」 「そうなんですね…」 空になったお皿に箸を置くと、暖かいお茶の湯飲みを手にした。 彼ももう、カレーを食べ終わろうとしている。 「…なんかちょっと、羨ましいです。  そうやって、直接、人の役に立てる仕事に呼んでもらえるのって」 まあ医者なら、仕事そのものが『人のため』に直結しているけど、診療所というところは、何となく、その最前線のような気がする。 50代になっても、俗に言う『先生』という仕事に奢ることなく、困っている町や人のために動こうとしているところが、潔い。 「一緒に来ますか?」 彼がそう言ったので、私は驚いて、湯飲みを持ったまま固まってしまった。 「あはは、冗談ですよ。  師長は周りの人から求められている人だから、僕からしたら、そういう人こそが羨ましい。  僕みたいな風来坊は、結局のところ、こういう大きなところには向かないみたいだから」 その時、院内PHSが今日子のポケットで振動を始めた。 慌てて取り出すと、通話ボタンを押して耳に当てる。 急ぎではなかったけど、師長室からの呼び出しだ。 斉森先生は「お先に」と言って軽く頭を下げ、お盆を持って返却口へと向かう。 自分も後に続かなければいけないのに、何だか取り残されたような気がして、彼の背を見送っていた。
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