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Prologue
“あ、お母さん? 夕べ帰ってきたよ~”
電話の向こうで娘の声がする。
「そう、何時頃着いたの?」
“夜中12時くらい?”
今は朝の8時だから、少し眠れたんだろう、声は元気だ。
“お土産買ってきたから、来週にでも帰ろうかと思って。予定どう?”
「うん、今、夜勤できる人がひとり休んでるから、水曜の夜はいないけど、あとは昼間だけだよ」
“判った~。じゃあ、火曜日に行って何日か泊まってもいい?”
「いいよ、杏里、よっぽど楽しかったんだね」
電話の向こうの声が弾んでる。
“そうなの、ひとりきりで海外ってちょっと緊張したけど、何とかやれたよ”
「ふ~ん、話聞かせてもらうの楽しみにしてる。じゃあ、出勤時間だから」
“判った、いってらっしゃい。来週ね”
電話を切ると、玄関で靴を履く。
支度をして出かけようと思っていたところに、電話が掛かってきたのだ。
外に出るといつものように鍵を閉め、マンションの廊下を降りていく。
大学入学と共に上京、そのままスポーツ用品の会社へ入社した一人娘は、順調に社会人生活を送っていたはずだった。
それが、人間関係がうまくいかなくなって退職した、と連絡があったのが先月。
その後、一度帰ってきたけど、随分落ち込んでいた。
自分のマンションへ帰る時、「退職金も入るし、気晴らしに旅行してくる」とだけ言って、海外へと旅立っていったのだ。
彼女は数年ごとに友達と旅行に行ってたけど、ひとりで海外というのは初めてだ。
大丈夫かなとは思ったけど、もう30も過ぎているし、無理はしないだろう、と止めなかった。
一週間ほどだったけど、もう気持ちの切り替えができたのだろうか。
…杏里が来たら、話さないとね。
自分の方も、娘に報告しないといけないことがあった。
30年以上勤めた病院を辞めようとしている。もう辞表は出してあった。
当然引き止められたし、惜しまれたけど、もう心は決めている。
…自分の人生を、納得のいくものにするために、この道を行こうと。
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