はじまりの音  理想的な家族6ーこころ

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「あ、待ってください、篠山さん」  月山さんが慌ててこころの腕をつかんだので、こころは驚いて、抱えていた大量の資料を落としてしまった。  バサバサと資料が落ち、こころと月山さんの間に散らばった。  呆然としたのは一瞬で、こころは慌てて拾い集めた。関係ない資料だ。見られたら「なんで」と思われてしまう。  だが、当然、月山さんも拾い集めようと、かがみこんだ。資料を取った手が一瞬止まって、それから何事もなかったかのように、手早く集めてくれた。 「すみません、僕が急に腕を掴んだりしたから」  月山さんはそう言って、側にあったテーブルで、集めた資料をトントンとそろえてくれた。 「いえ、こちらこそ。すみませんでした」  月山さんは絶対に気が付いている。  こころは一秒でも早くこの場を去りたくて、月山さんから資料を受け取ろうと両手を出した。  月山さんは自分がそろえた資料を、しっかりと持ちなおした。 「運ぶの僕も手伝いますよ。篠山さん一人で持つには、重すぎる」 「いえ、大丈夫です。今まで持っていたし、全然平気です」  全力で断ろうとするこころに構わず、月山さんは資料を持ったまま歩き出した。 「ちょっと待ってください、月山さん!」  こころが焦って追いつくと、月山さんはにこやかに言った。 「営業部に来るなんて、僕に用事があったんでしょう?なんですか?」  お見通し、というふうな月山さんに、こころは何故かむかっとして、言い返す。 「いえ、資料を運んでいた途中に、寄ってみたんです」  月山さんは人質のように抱えている資料をチラリと見て笑った。 「そうですか。これは総務に持っていくべき資料だと思いますけどね」  やっぱり、気づかれてた。  こころはもうごまかす気力もなく、だまったまま歩いていた。月山さんがこんなふうに人をからかうとは、思わなかった。  せめてもの抵抗で、こころはしかめっ面で歩く。もっとも、そんな顔をつくっておかないと、恥ずかしさで座り込みそうだった。 「あ」  月山さんがわざとらしく声を上げた。  こころが思わず振り返る。 「ここのフォント、もう少し大きい方がよくないですか?」  資料を指さして言う月山さんを、こころはキッと睨み、声を尖らせた。 「……いい加減にしてください」 「……やっとこっちを向いてくれた」  月山さんはそう言って、目が合ったこころに笑いかけた。  イケメンかぁ。  月山さんは女性社員のあいだでは、細かすぎる残念なイケメンと評されている。イケメンであることは確かなようだが、こころはイケメンにピンと来ない。  でも、この笑顔はいいなぁ。  見とれてしまった自分に気が付いて、こころはまたドキドキしてしまった。 「僕は篠山さんに用事があったんです」  月山さんに見惚れていて、こころは聞き逃してしまった。 「え?」 「篠山さんにお土産を買ってきました。後で渡しますね」  ああ、お土産。驚いた。  ドキドキする胸を、両手が空いていたら、抑えたかった。 「後でって」 「いつ?」と訊こうとする前に、業務部に戻ってきてしまった。  月山さんは自分が抱えていた資料をこころに渡すとき、「じゃあ、六時でいいですか?」と囁いた。「ご飯食べに行きましょう」
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