はじまりの音  理想的な家族6ーこころ

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 それから一週間、月山さんは現れなかった。  一日目は気にも留めず、二日目は珍しいなと思い、三日目は大きな案件でも抱えていたかと思いを巡らせ、四日目はもしかして体調不良なのかと心配になった。だが、そもそも普段、業務部に現れることが不自然なのだから、誰にも訊けない。だがついに、週開けの月曜日になっても姿を見なかったとき、こころは大量の資料を抱え、営業部に出向いた。 「月山さんを呼んでください」  営業部の入り口で、戦いを挑むような勢いでこころが告げると、奥から体の大きな男性が出てきた。 「月山さん?今日の夕方、出張から戻ってくるよ。その資料、月山さんに頼まれたの?今日なんて、急ぎかなぁ?」  彼がこころの持っている資料を覗こうとしたので、こころは慌てて隠すように抱えなおした。実は手ぶらではおかしいので、適当に抱えてきたのだ。 「あ、しゅ、出張……そうですか」  こころは動揺して、もごもご言った。  出張かもしれない可能性を忘れていた。 「で、出直してきます」  大量の資料が急に重く感じた。こんなに大量に持って来て……自分はどうかしていたのかもしれない。  くるりと向きを変え、逃げるように去ろうとするこころを、彼は「あ、待って」と引き止めた。 「もしかして、篠山さん?」  こころは驚いて振り返る。営業部にいるのだから営業だろうが、こころの担当ではなかった。担当でないと、面識もないことが多い。こころたちの働くこの会社は、そこそこ大きいのだ。こころは彼の顔を見たことがある気はしたが、名前までは把握していなかった。  彼がこころの顔を覗き込むようにしたので、こころは思わず後ずさってしまった。 「へぇ、なるほどねぇ」  引いているこころの様子に気が付かないのか、彼は更に近づこうとする。  あ、やだな。  こころは身を少し引いたが、あからさまに逃げ出すわけにもいかない。  その時、迫る彼とこころの間に、だれかの腕がさっと差し込まれた。 「近づきすぎだ、熊田。離れろ」  聞き覚えのある声に、こころが振り返ると、月山さんが立っていた。 「あ、月山さん、おかえりなさい。今日はそのまま直帰かと思いました」  熊田と呼ばれた彼は、こころから離れながら、あっけらからんとそう言った。 「今日出したい書類があったから、寄ったんだ。寄ってよかった」  そう言いながら、月山さんはこころをそっと熊田さんから引き離した。  月山さんの手がこころの腕に触れた時、こころはそこだけ熱くなった気がした。心臓がドキドキと打っている。  え、やだ、ちょっと。  こんなことでドキドキしたなんて言ったら、また由紀子に大笑いされてしまう。 「ひどいなぁ、月山さん。月山さんが言っていた篠山さんが来たから、ちょっと見ちゃっただけじゃないですか」 「見るな。だいたい、篠山さん怖がってるぞ」  月山さんが厳しい顔でそう言うと、熊田さんは「え」と驚いて、「すみませんでした」と頭を下げた。どうやら悪気はなかったらしい。  こころは「いえいえ、大丈夫です」と首を振って、「じゃあ、失礼します」と立ち去ろうとした。
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