はじまりの音  理想的な家族6ーこころ

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 あの後、こころが顔を上げた時は、月山さんは足早に立ち去っていた。  断りたくても断れないじゃない、と思いながら、こころは六時きっかりに、会社の玄関に着いてしまった。  お土産をこころに買ってきたと言っていたから、勝手に由紀子を誘うわけにもいかない。  すぐに開いたエレベーターから、月山さんが降りてきた。こころを見つけると、嬉しそうに手を振ってきた。  かっちりスーツでクールに決めている月山さんが、急に子どものように手を振ったので、こころもギョッとしたが、近くにいた全員が驚いたように振り返った。 「よかった、篠山さん」  強引に誘っておいて、月山さんはホッとしたように息をはいた。  月山さんって、こんな人だっただろうか。何事にもクールで、細かすぎるけど仕事のできる、安定した人じゃなかったっけ。  それが、今日のこの不安定さはなんだろう。  優しかったり、そっけなかったり、強気で意地悪かと思えば、子どものように笑ったり……。 「月山さん」  二人で並んで歩くのは実は初めてだ。  月山さんがこころに合わせて、歩調を緩めてくれているのが分かる。  こころが呼ぶと、月山さんは「はい?」と返事をし、こころを見てくれた。  お昼にこころの隣で仕事をする時の距離より、少しだけ離れている。その距離感が新鮮で、かえってこころはドキドキした。 「今日お疲れじゃありません?」  そうだ。今日、月山さんは出張から戻ったばかりだ。 「なんだか、月山さん、いつもと違う気がして。何がと言われても、上手く言えないんですけど」  言いたいことの半分も伝わっていない気がして、こころはもどかしかった。  月山さんは何も答えなかった。ゴソゴソとカバンを探り出したので、こころは不安になった。何か気に障ることを言っただろうか。やっぱり食事に行くのはやめようと言われたら、どうしよう。 「これ」  月山さんはこころの手を取ると、カバンから取り出した何かを、こころの手のひらの上に置いた。  それはチリンと涼やかな音をたてて、こころの手に納まった。  月山さんが手を退けると、可愛いガラス玉の根付がこころの手のひらの上にのっていた。  トンボ玉というのだろうか、ガラス玉の中に淡い黄緑とオレンジ色が混ざり合い、美しい模様を造っている。 「かわいい……」  こころは思わず呟き、それがこころへのお土産だと気が付いて、慌てて「ありがとうございます!」とお礼を言った。  こころの様子を見守っていた月山さんは、「よかった」と言った。 「篠山さんへのお土産にそれを選んだんですけど、個人へのお土産の割に、安っぽいかなと心配だったんですよ。でも、あまり高価なものをあげても驚かれてしまうだろうし、なにより、そのトンボ玉が篠山さんのイメージにピッタリで。だから、つまり……」  お土産の事情を、本人にすべて白状してしまっている月山さんに唖然としながら、こころはドキドキが止まらなかった。 「つまり?」  その先が訊きたくてこころが促すと、月山さんは口を手で抑えて、ぼそぼそと言った。 「篠山さんが喜んでくれるか心配で、ずっとドキドキしてたんです」  だから、いつもと違っていたのか。 「じゃあ、わたしと一緒ですね」  嬉しくてというよりは、何か言わなきゃと思って、こころは思わずそう言ってしまった。 「え?」という目で、月山さんがこころを見る。 「わたしも月山さんにドキドキするんです」  月山さんは目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。こころの好きな笑顔だ。 「実は僕もおそろいで買ってしまったんです。一緒につけてもいいですか」  月山さんがもう一つ根付を取り出した。チリンと鈴が鳴り、月山さんの指の先で揺れる。  深い藍色と鮮やかな碧が混ざるトンボ玉は、月山さんにピッタリだと思った。
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