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あの後、こころが顔を上げた時は、月山さんは足早に立ち去っていた。
断りたくても断れないじゃない、と思いながら、こころは六時きっかりに、会社の玄関に着いてしまった。
お土産をこころに買ってきたと言っていたから、勝手に由紀子を誘うわけにもいかない。
すぐに開いたエレベーターから、月山さんが降りてきた。こころを見つけると、嬉しそうに手を振ってきた。
かっちりスーツでクールに決めている月山さんが、急に子どものように手を振ったので、こころもギョッとしたが、近くにいた全員が驚いたように振り返った。
「よかった、篠山さん」
強引に誘っておいて、月山さんはホッとしたように息をはいた。
月山さんって、こんな人だっただろうか。何事にもクールで、細かすぎるけど仕事のできる、安定した人じゃなかったっけ。
それが、今日のこの不安定さはなんだろう。
優しかったり、そっけなかったり、強気で意地悪かと思えば、子どものように笑ったり……。
「月山さん」
二人で並んで歩くのは実は初めてだ。
月山さんがこころに合わせて、歩調を緩めてくれているのが分かる。
こころが呼ぶと、月山さんは「はい?」と返事をし、こころを見てくれた。
お昼にこころの隣で仕事をする時の距離より、少しだけ離れている。その距離感が新鮮で、かえってこころはドキドキした。
「今日お疲れじゃありません?」
そうだ。今日、月山さんは出張から戻ったばかりだ。
「なんだか、月山さん、いつもと違う気がして。何がと言われても、上手く言えないんですけど」
言いたいことの半分も伝わっていない気がして、こころはもどかしかった。
月山さんは何も答えなかった。ゴソゴソとカバンを探り出したので、こころは不安になった。何か気に障ることを言っただろうか。やっぱり食事に行くのはやめようと言われたら、どうしよう。
「これ」
月山さんはこころの手を取ると、カバンから取り出した何かを、こころの手のひらの上に置いた。
それはチリンと涼やかな音をたてて、こころの手に納まった。
月山さんが手を退けると、可愛いガラス玉の根付がこころの手のひらの上にのっていた。
トンボ玉というのだろうか、ガラス玉の中に淡い黄緑とオレンジ色が混ざり合い、美しい模様を造っている。
「かわいい……」
こころは思わず呟き、それがこころへのお土産だと気が付いて、慌てて「ありがとうございます!」とお礼を言った。
こころの様子を見守っていた月山さんは、「よかった」と言った。
「篠山さんへのお土産にそれを選んだんですけど、個人へのお土産の割に、安っぽいかなと心配だったんですよ。でも、あまり高価なものをあげても驚かれてしまうだろうし、なにより、そのトンボ玉が篠山さんのイメージにピッタリで。だから、つまり……」
お土産の事情を、本人にすべて白状してしまっている月山さんに唖然としながら、こころはドキドキが止まらなかった。
「つまり?」
その先が訊きたくてこころが促すと、月山さんは口を手で抑えて、ぼそぼそと言った。
「篠山さんが喜んでくれるか心配で、ずっとドキドキしてたんです」
だから、いつもと違っていたのか。
「じゃあ、わたしと一緒ですね」
嬉しくてというよりは、何か言わなきゃと思って、こころは思わずそう言ってしまった。
「え?」という目で、月山さんがこころを見る。
「わたしも月山さんにドキドキするんです」
月山さんは目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。こころの好きな笑顔だ。
「実は僕もおそろいで買ってしまったんです。一緒につけてもいいですか」
月山さんがもう一つ根付を取り出した。チリンと鈴が鳴り、月山さんの指の先で揺れる。
深い藍色と鮮やかな碧が混ざるトンボ玉は、月山さんにピッタリだと思った。
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