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最終話「……飛ぶな! きみだけでも、助かれ!」」
夜の歩道橋。必死に手すりにしがみつく。足元は車のライトの激流だ。
白いヘッドランプが俺に向かう。
赤いテールランプが俺を置いていく。
頭上から、彼女の声がした。
「うっわ、相手をまちがえた! あのさ、助かりたい?」
助かりたい? と聞く声は、十年も会っていない娘に似ている気がした。
――娘。 会いたい。会いたい。もう一度だけ――。
「助けろ! 頼む!」
「わかった、やってみる」
ちょっと頼りないふうに、彼女は言った。そして歩道橋の手すりによじ登った。
俺は悲鳴を上げる。
「君が飛びおりて、どうするんだ!」
「え? だって、落ちなきゃ始まらない」
「はあ? なにを言って……飛ぶな! きみだけでも、助かれ!」
彼女はおれを見もしないで、手すりを蹴った。夜空に向かってダイブ!
俺は片手を歩道橋から離し、精いっぱい伸ばした。
「バカ、つかまれ!」
彼女は、落ちながらにこりとした。
「――“災いはあなたに臨(のぞ)まず、悩みがあなたの天幕に近づくことはない”」
濃紺の空に、白いホルターネックが飛んだ。くるりとひるがえった背中から、メリメリと音を立てて翼が生えた。
汚れなく大きく、しなやかな翼。
彼女は二度、三度と、月を切るように大きく羽ばたきすると、旋回して、俺を引っ張り上げた。
ニヤリと笑う。
「”主はその羽をもって、あなたをおおわれる”ーー。
よかったね。初飛行だから、成功率は五分五分だったの。ドキドキしたわ」「俺は練習台かっ!」
そうツッコんで、目を閉じた。
羽根の中は甘い匂いに満ちていた。生まれたての赤ん坊の匂い。あたたかい命の匂い。
めぐり来る朝陽の匂いだ。
――家に帰って、娘に電話しよう。とりあえず借金は忘れて。
【了】
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