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水族館の外はもうだいぶ、危ないらしい。
進みすぎた文明は、星を壊すところまでやって来ていた。
ある日水族館の通路をペソギソが歩いていると、館長さんやスタッフの人たちが水槽の中の子たちに声をかけているのを見かけた。
「何を話しているの?」
ペソギソ以外の生き物たちは人間の言葉がわからない。だけどここの水族館の人たちは心が通じることを信じていて、声をかけることをやめない。魚たちの方でもその真摯な気持ちがわかるから、言葉が通じなくても一生懸命に飼育員さんたちの顔を見て、頷いたりしていた。
「お別れだ、と言いに来たんだ」
「……今日なの?」
「ほんとうはもう、水族館という場所も無意味なものだったから」
世界中の地表は熱を上げ続け、生き物たちは自分たちの生まれ故郷に戻ることが叶わなくなって久しい。水族館は種の保存のために存在していたようなものだったけれど、その役目ももう手放さなくてはいけなかった。
「人間ももう、自分自身のすみかすら守れない状態だ。他の生き物を守ろうだなんて、おこがましい考えだと言われているよ」
人は人が生きるだけで手いっぱいになっていた。この水族館がここまでやってこられたのは、「無理を通した」というだけのこと。その無理も、もう限界に来てしまった。
温度とともに上昇し続ける水面はひたひたと地上を浸し、この水族館も最近ではすねのあたりまで水が浸入してきている。
熱帯のトカゲも、氷の世界のペンギンも、深海の魚たちも、区別なくその水の通路に解放されはじめた。建物の外は、どこも同じような気温になっていて湿度も何もかもめちゃくちゃだから、「本来生きていた場所」というところは、どこにも存在しない。
自分の本能で自分が生きられる場所を、みんなは見つけるしかない。そのまま死んでしまうものも数多いることだろう。館長さんはその罪に顔を覆って嘆いた。
「好きなところにお行き。守ってあげられなくてごめんな」
館長さんはぼろぼろ泣きながら、離れていくみんなに手を振った。館長さんに恋をしていた一匹のペンギンが足の間にはさまって離れようとしないのを、ペソギソはそっと優しく引きはがした。「お別れなんだって」と伝えると、恋をしていたペンギンは悲し気に鳴いた。
「みんなは、どうするの?」
「人間は、人間たちが作った空を行く舟で新しい居場所を探すんだ。ひとつの星を壊しておいて、勝手なものだよな」
私たちもそれに乗ることになっているから勝手なことは同じだけれど、と自嘲する。
「生き物の種だけ持っていくんだ。ここに溢れるほどいたはずの君たちのことは連れて行かないくせにね」
足を流れる水流にあらゆる魚たちが泳いでいく。ペソギソと館長さんは、少しの間黙ってそれを一緒に眺めた。
「ペソギソはペンギンたちと一緒に行くかい?」
実はもう何度か訊かれたことのある問いだった。ペソギソはそのたびに答えに詰まってしまって、今日もまた、ためらいながら嘴を開いた。
「ぼくは……」
言おうとした時、「あ痛っ!」という叫び声が聞こえた。
「あ痛たた……。最後にやられちゃったな。うん、でも、腹いせにいくらでも噛んでくれていいよ。ほんとうに、ごめんな」
大きなトカゲに噛みつかれながら謝っているのは、スギウラさんだった。ふくらはぎから血が出ている。
「スギウラさん!」
ペソギソはスギウラさんに駆け寄った。
「やあペソギソ。館長も。もうみんな、外に出したんですか?」
大怪我に見えるけどいいのかな、と館長さんは慌てたけれど、にこにこと近づいてくるのでいったん気にしないことにしたようだった。
「ああ。きっとぎりぎりまで耐えていた他の動物園なども、同じことをしているのだろう」
文明を築き上げて来た証の都市は水に沈み、動物たちはそこを駆けていく。彼らは生き残るだろうか。死ぬだろうか。進化を遂げて新たな環境に自分たちの体を馴染ませていくのだろうか。
「逃げるのは人間たちだけだ」
「館長はいつの便で?」
「私は三日後の船だ。スギウラくんは?」
「僕は残ります」
スギウラさんは、近所に買い物に行くかのような軽さでそう言った。
「えっ」
館長さんは驚いたし、
「えっ」
ペソギソも驚いた。
「船は船でも違うものを用意してあるんですよ」
スギウラさんは通路を明るく照らす大きな窓を開けると、そこからざぶざぶと外に出てあるものを引っ張って戻って来た。
「よいしょ!」
それは空を行く船ではなく、たくさんの人たちが乗れるような大きさでもない。スギウラさんが汗をかきながら一生懸命に引っ張ってきたのは、ただのボートだった。
スギウラさんはそのボートに乗ると、ペソギソに手を伸ばした。
「ペソギソ、旅に出よう」
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