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「空知つぐみです。よ、よろしくお願いします」
私は、石井さんの手を握った手がべたついていないか気になった。季節は6月。かなり蒸すうえに、途中で車から降りてここまで歩いてきたので、たぶん汗をかいていると思う。お父さんはついていかなくていいかって心配していたけど、親同伴で寮に来るなんて、他の寮生に笑われる気がした。私の手を離した石井さんは、特に嫌な顔をすることもなく門の中に促した。門をくぐると、わかば寮の玄関が見えてきた。玄関へと向かう道にはレンガが敷かれていて、両側には花壇がある。花壇には、マリーゴールドやサルビアなどが植えられていた。私は花が好きなので、それを見てちょっと心が和んだ。綺麗に手入れされてるな。誰がお世話してるんだろう。
玄関のドアを開けると、絨毯の敷かれたエントランスにつながっていた。エントランスに向かう途中に下駄箱があって、どうやらここで靴を履き替えるようだ。石井さんは私にスリッパを差し出しながら尋ねてくる。
「この時期に入寮って珍しいよねえ。親御さんの事情とか?」
「あ……いえ、あの」
「あ、言いたくないなら無理しなくていいよ」
石井さんがそう言ってくれたので、黙って頷いた。チカンにあうのが嫌で入寮しましたなんて、くだらなすぎて笑われるのではないかと思った。それに私は、昔から初対面の人と話すのが苦手だった。うまく話せないから結局黙り込んでしまって、相手を不快にさせてしまう。でも、聞かなきゃいけない。気になっていること。私はか細い声で尋ねた。
「この寮、男子もいる、んですよね」
「うん。わかば寮は男女共同の寮だけど、食堂以外の生活スペースはきっちり別れてるし、安心して」
石井さんの返事を聞いた私はほっと息を吐いて、よかった、とつぶやいた。知らない男子と一緒に生活するなんて、想像するだけで無理だ。石井さんが顎に手を当て、しげしげと私を見る。
「よかった、か……じゃ、ひばり目当てじゃないってことね?」
「ひ、ばり?」
私の脳裏には、初夏にけたたましく鳴く鳥の姿が思い浮かんだ。しかし、石井先輩の次の台詞でその想像がかき消える。
「うちの寮に五十嵐ひばりっていう、ろくでもない男がいてねー」
「ろくでもない……おとこ」
「私と同じ2年生なんだけど、寮の規則を破りまくりの駄目人間。たまに女を連れ込んでるって噂もあるわ」
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