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不可能な恋
毎朝のバス通学は地獄だ。
男の人がそばに来るだけで、喉が詰まって息が苦しくなる。タバコの匂い、汗の匂い、咳払いや、きつい整髪剤の匂い。全部苦手だ。それに、毎朝私の後ろに立つひとがいる。
「やあ。また会ったね」
耳元で声が響いて、私はびくっと震えた。
顔なんてわからない。声も聞きたくない。ブレザーを着ている私の背中をなぞった手が、お尻をなで上げた。ぞっとして、スクールバックの持ち手をぎゅっと握りしめた。悲鳴を上げたいのに、唇が震える。叫ばないといけないのに。私は手すりにしがみついて、必死にその手の感触に耐えた。誰か助けて。心の中で思ったって、満員のバスで、他の人に構う余裕なんて誰にもない。
その時、横から伸びてきた手がチカンの腕を掴んだ。ぎりっと腕をひねりあげられて、チカンが悲鳴をあげる。
「ぎゃあっ」
「欲求不満なの? オッサン」
低くて少し掠れた、冷たいような、優しいような、不思議な声。私の目は涙でいっぱいになっていたので、その人の姿はよくわからなかった。誰かが乗降ボタンを押して、バスが停車する。チカンは舌打ちして、開いたバスの扉から降りていった。バスの中が一瞬ざわめく。私は震える声で、そのひとにお礼を言おうとした。
「あ……ありが」
そのひとは大きな手で、私の頭をなでた。そうしてバスから降りていく。閉まる扉の向こう、私と同じ若葉高校の制服の後ろ姿だけが、この目に焼き付いていた。
私は、顔も名前もわからないひとに恋をした。
私は荷物を手に「わかば寮」と書かれた建物の前に立っていた。寮をぐるりと囲む高い塀と、鉄の門は頑丈そうで、ちゃんと守られているって感じで安心する。
意を決してインターホンを押すと、スピーカーからはーい、と返事が聞こえてきた。よかった。女の子だ。その時点で、私はかなりほっとしていた。門の潜戸から、女の子がひょこっと顔を出す。すらっとした身体つきに制服を纏った、ショートカットのきれいな人だ。ショートカットは私のあこがれの髪型の1つだった。挑戦してみたいけど、美容師さんに言い出せなくていつも同じ髪型になってしまうのだ。それに、どうせ私には似合わない。私は無意識のうちに、長い前髪を指でいじった。女の子は私を見て、にこっと笑いかけてきた。
「空知さん?」
「はい……」
私は消え入りそうな声で返事をした。私の前に、健康的に日焼けした手が差し出される。
「寮長の石井です。二年生。よろしくね」
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