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甘々な彼
鹿内さんが我が家を出てから2か月が経った。
初夏の風が瑞々しい青葉を揺らしていた。
私と鹿内さんは一週間に1度のペースでデートを重ねていた。
場所は駅前のカフェやファミレス、美味しいラーメン屋さん。
お洒落なカフェもいいけれど、鹿内さんのお気に入りの隠れ名店に連れて行ってもらえることが何よりも嬉しかった。
過去の鹿内さんを知れるような気がするから。
緑の豊かな公園にも行った。
鹿内さんは私が由宇さんと一緒に公園へいったことを実はかなり根に持っていたみたいで、その記憶を上書きするように、都内の広くて自然豊かな公園へ行きたがった。
話題は大学でのたわいもないことやバイトで出会った愉快なお客さんのこと、モモと小太郎の様子などなど。
していることはお付き合いを始める前とあまり変わらないけれど、鹿内さんの横にいることを許されたのだと思うと、嬉しくて会うたびに胸が弾んだ。
今日は心に空色の風が穏やかに吹く公園デート。
芝生の上に二人並んで座ろうとしたら、体育座りをした鹿内さんが私の腕を引っ張った。
「つぐみの指定席はここ。」
そう言って自分の足の間に私を座らせようと膝小僧を二回叩いた。
私はおずおずと鹿内さんの膝に挟まれるように座り、スカートを直しながら足をぴんと伸ばした。
鹿内さんの体温を背中に感じて、私の胸の鼓動が高鳴る。
大きな胸に身体を預けると、すかさず鹿内さんは私をバックハグして、耳元でこう囁いた。
「つぐみの大学合格のお祝い、まだしてないよな?・・・たまには夜に食事しない?」
いつも会うのは昼間の太陽が高い時間ばかりだったので、私は少し驚いていた。
「え?夜ですか?」
「駄目?パパに怒られる?」
「大丈夫・・・だと思います。私だってもう大学生なんですよ?
鹿内さんとのお付き合いだって認めてもらえたわけだし・・・。」
「じゃ、約束。」
「は・・・い。」
鹿内さんは私の小指を自分の小指を絡ませ、小さく振った。
鹿内さんの髪が私の頬に触れ、あまりにも身体を密着させるので、少し恥ずかしくなった。
「鹿内さん・・・ここ人前ですよ?」
「別にいいだろ?誰に見られても。」
「それはそうですけど。」
「それに、いつになったらその敬語を止めてくれるのかな?俺の愛のセンセイは。」
「いきなりため口は、ハードルが高すぎま・・・るよ?」
「敬語だとなんだか距離を感じて淋しいんだけどな。」
そう言いながら鹿内さんは、私の肩に頭を擦り付けてきた。
・・・まるで大型犬に甘えられているみたい。
付き合い始めてからの鹿内さんは、こっちが恥ずかしくなるくらい私に激甘だ。
以前のどこかそっけない鹿内さんとはまるで別人みたい。
でもそのギャップがたまらない。
私は鹿内さんの頭を、自分の両腕でそっと包み込んだ。
ほどなくして、鹿内さんから日時と時間、待ち合わせ場所を知らせるラインが来た。
合格祝い・・・か。
私もこの一年半勉強を頑張ったけれど、鹿内さんもこんな出来損ないの私をよくぞここまで引っ張り上げてくれたものだ。
本来なら、私の方がお礼をしなければならない立場なのに、いいのかな?
そんなことを思いながらも忙しい日々が過ぎ、その日がやってきた。
JR新宿東口の改札口を出て階段を上がると、誰かと待ち合わせしているであろう人々の群れがそこにはあった。
空が群青色に染まり、黄色い月がぽっかり浮かんでいる。
繁華街の電灯が少しづつ灯り始める。
交差点には沢山の人々と車の呼吸と雑音。
私は人待ち顔のその群れの中に、ひっそりと紛れ込んだ。
待ち合わせ時間まであと10分。
着てきたのはいつぞやの合コンの前に沙耶と一緒に買った、少し大人っぽいワンピース。
シースルーの腕がセクシーに見えるといいんだけど。
そしてママが大学の入学式用に買ってくれた、少しヒール高めの白い靴。
好きな人と一緒に食べる食事はきっと美味しいに違いない。
たとえ連れていかれるところが、回転寿司でもラーメン二郎でも、私はどこへでもお供するつもりだった。
ああ、胸がドキドキしてきた。
今までだってふたりで出かけたことはあったけれど、夜のデートは初めてだ。
時計の針が18時を5分過ぎた時、ふいに肩を叩かれた。
「悪い!遅くなった。」
鹿内さんは渋いチャコールグレーのスーツに、ポールスミスのネクタイを締めている。
初めて見るそのスーツ姿に、私は思わず呼吸が止まりそうになった。
男の戦闘服とはよくいったものだ。
その姿はいつもの数倍、いや数十倍くらい決まっていた。
「なんだよ。その顔は。」
そう言いながらも、鹿内さんの顔は照れ臭そうに微笑んでいる。
「だって・・・スーツなんて、反則ですよ。」
「反則ってなんだよ。つぐみこそ、今日は大人っぽい。」
鹿内さんがそう言って私の全身を隈なく見るので、私も照れ隠しに肩をすくめてみせた。
「じゃ、行こうか。」
「今日はどこへ連れていってくれるんですか?」
私の無邪気な問いに、鹿内さんは私の左の手の平をさり気なく握りながら言った。
「ベタだけど・・・夜景が見えるレストラン」
新宿西口にある高層ビル群の中の一角にある某有名ホテルに私達は入って行った。
エレベーターで最上階まで上ると、一面に東京の夜景が広がっていた。
アメリカの都市の名前が付いたレストランに、鹿内さんは臆せずに入って行く。
そして黒服の店員に何やら声を掛けた。
どうやら予約をしてくれていたらしい。
窓際の席に着くと私達の元にグラスが並べられ、琥珀色の液体が注がれていく。
「今日くらい酒飲んだって許されるだろ。シャンパンだから甘くて飲みやすいしな。」
鹿内さんはグラスを持つと、私のグラスにカチンと軽く当てた。
こんなことにも慣れない私の手は震えていた。
「大学受験お疲れ様。よく頑張ったな。」
「ありがとうございます。これも鹿内先生のお蔭です。」
私がぺこりとお辞儀をすると、鹿内さんはシャンパンの入ったグラスを少しだけ口つけて唇を濡らした。
「先生はやめてくれ。もう俺は家庭教師じゃない。・・・ただの恋人だろ?」
「そうです・・・ね。」
恋人という響きがなんだかとても照れ臭い。
「でも正直、俺も助かったよ。
バイト先のシフトが減って収入が減ってしまった時に、君のママさんから交換条件出されて。つぐみの家庭教師を受けてくれたら生活費ゼロにしてくれるって。」
「やっぱりそういう事情があったんですね。」
「そ。大人の事情ってやつ。」
そんなこともつゆ知らず、呑気に勉強を教えて貰っていた自分は、やっぱり子供だなと改めて感じてしまう。
最初に前菜で、名前も知らないカラフルな料理が運ばれてきた。
鹿内さんは出された食事をナイフとフォークで綺麗にとりわけ口に運んでいく。
「うん。美味いぞ。つぐみも食べな。」
「は、はい。こういう所に来るのは初めてだから緊張しちゃって。」
「普通にしていればいいんだよ。どんなに気取っていたって、所詮同じ人間なんだから。」
「はい。」
「あ、適当にコースで頼んでおいたけど、それでいいか?」
「はい。」
はい、しか言えない自分が情けない。
一面ガラス張りの窓からは、東京の街並みが点々と光って見える。
丁度私達の窓からは、東京タワーの赤い光がひときわ存在感をはなっていた。
「わあ!綺麗・・・。」
「ああ。綺麗だ。・・・でもつぐみの方が綺麗だよ。」
そんな甘い言葉を紡いで、鹿内さんは私に優しく微笑んだ。
私は思わず顔が赤くなる。
本当に鹿内さん、どうしちゃったんだろう?
付き合う前の彼とは、別人みたい。
こんなロマンチックなシチュエーションが自分の身に起こるなんて考えてもみなかった。
鹿内さんはラーメン屋や串焼き屋が似合う人だと思っていたけれど、今夜高級レストランで向き合う彼はいつになく素敵だった。
どこでこんなスマートな振る舞いを身につけたのだろう。
私が見ていた鹿内さんは、ほんの一部分だけだったのかもしれない。
スープにサラダにメインディッシュの牛フィレのステーキ。
見ているだけでお腹がいっぱいになってしまいそうになる。
「つぐみは食物の写真を撮ったりしないんだな。
インスタとかSNSはやっていないの?」
「やっていません。
・・・私は今この瞬間を心に刻みつけたいんです。」
「つぐみらしいな。」
シャンパンのグラス越しに私を見ながら、鹿内さんはそうつぶやいた。
鹿内さんは、就職先の中学校が下町にあるので、老舗の街の食べ物屋を一通り巡りたいと話した。
大食漢な鹿内さんらしい発想だ。
「鹿内さんのクラスの生徒はどんな感じ?」
「思春期真っ盛りで生意気だけど、皆可愛いよ。俺の拙い授業も真面目に聞いてくれるし。
つぐみの大学は共学だよな。てっきり女子大を受けるものかと思っていたけど。」
「男嫌いは、もう卒業しました。・・・これも鹿内さんのお蔭ですね。」
もう私は電車でサラリーマンと肩をぶつけようと、書店での立ち読みで隣に男性が立っていようとも、体中で恐怖や嫌悪感を抱くことはすっかりなくなった。
「それは良かったというべきだけど・・・。
俺以外の男と必要以上に親しくなるのは、絶対に禁止。」
「そんなことしませんよ。私、鹿内さんみたいにモテませんから。」
「これだもんな。つぐみは自分のこと、全然分かってないんだから。」
「え?私のこと?」
「君がものすごく可愛い女の子だってことをさ。」
「嘘ばっかり!鹿内さんは私を過大評価し過ぎです。」
「だから俺は本当のことしか言わない男だっていつも言ってるだろ?
それに君の周りには由宇君や、森本店長とやらがいるから心配が尽きない。」
付き合い始めてから、もうひとつ新しい鹿内さんの一面を知ったことがある。
それは鹿内さんが、かなり嫉妬深いということだ。
私が少しでも他の男の人の話をしたりでもしたら、
すぐにむくれて煙草を吸いに席を立ってしまう。
だから大学で少し話をするようになった男子の話なんかは決して出来ないのだ。
そうこうしているうちに、デザートが運ばれてきた。
デザートのシャーベットはカシス味だった。
ちょっぴり大人の味がした。
食事が終わりホテルを出ると、もう空は真っ暗だった。
都会の空は星も見えないというけれど、私はそれでもいいと思った。
見えなくても星たちは確実に地球を照らしているはずだ。
私達は歩道橋の階段を上った。
初めてのシャンパンで酔いが回ったのか、足元がおぼつかない。
意識がふわりふわりと揺れて、なんだか気分が良かった。
私は歩道橋の上から、真下を通る車の列を眺めた。
その黄色い灯りの列の美しさに、私はうっとりと夢うつつになった。
風が温かく心地よかった。
「おい。大丈夫か?」
気づくと身体を鹿内さんに支えてもらっていた。
「らいじょうぶれす」
「・・・やっぱり酒なんか飲ますんじゃなかったかな。」
「鹿内さんは酔ってないんれすか?」
「俺があれくらいの酒で酔うわけないだろ。」
少し後悔したような鹿内さんの顔がぼやけて見える。
気が付くと私は鹿内さんの胸に自分の顔を押し付け、しがみついていた。
鹿内さんにおもいきり甘えたかった。
「今夜はやけに積極的なんだな。」
鹿内さんは私の頭にひとつキスをくれた。
「頭じゃいや。」
すると今度は私のおでこにキスをした。
「おでこでも嫌。」
まぶた、鼻先、右の頬、左の頬・・・鹿内さんは私の顔じゅうにキスの雨を降らせた。
でも一番して欲しい箇所にキスをしてくれない。
私をじらして楽しんでいるんだ。
「もう。鹿内さんの意地悪。」
私は背伸びをすると鹿内さんの頬を両手で引き下げ、そっと唇を重ねた。
鹿内さんの煙草の匂いが、私の鼻孔をくすぐった。
優しくて、長いキスだった。
唇が離れた瞬間、身体ごと抱きすくめられた。
「好きだよ。つぐみ。」
「え・・・?」
「ちゃんと言ってなかったな、と思ってさ。」
みぞおちに甘い痛みが走った。
私が一番言われたかった言葉が、一番言われたかった人の口から発せられたのだ。
「私も・・・好き。」
私は蚊の鳴くような声でそれだけ言うのが精いっぱいだった。
「どれくらい?」
鹿内さんが悪戯っぽく微笑んだ。
「えーと。これくらい!」
私は両腕を高く高く上げた。
「それだけ?」
「それだけって・・・私は自分の最上級の気持ちを表したつもりですよ!」
「はいはい。わかったよ。」
鹿内さんはそういうとコツンと私のおでこと自分のおでこをくっつけた。
「俺があの家で理性を保つのに、どんなに苦労していたか、つぐみにはわからないだろうなあ。」
私をきつく抱きしめながら、鹿内さんがぽつりとつぶやいた。
「理性?」
「ああ。君をずっと、こんな風に抱きしめたかったってこと。」
「そんなの・・・早くしてくれればよかったのに。」
私が口を尖らすと、鹿内さんは長い前髪をかき上げた。
「そんなことしたら君のパパに刺されるだろ?」
「それもそうか。」
「やけにあっさりしているな。なんかムカつく。」
そう言うと、今度は鹿内さんの方から唇を塞がれた。
鹿内さんの舌先が私の唇をこじ開け、私の舌をゆっくりなぞる。
私も恐る恐る鹿内さんの舌先を舐めてみる。
ふたりの舌がそこだけ別の生き物のように、蠢いている。
唾液が混ざり合い、それでも絡まり合う舌を離してしまうのが惜しくて、鹿内さんがゆっくりと私の唇を親指でなぞるまで、私はされるがままになっていた。
「・・・ん。上手に出来ました。合格。」
鹿内さんはまた私を子供扱いした。
私だってディ―プキスくらい出来るのに。
「つぐみ。約束。・・・俺だけを見ていて。」
見たことのない鹿内さんの真剣な表情に、私は大きく頷いた。
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