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あふれる想い
その日の私は朝からちょっと体調がおかしかった。
朝ご飯はバターを塗ったカリカリのトースト、スクランブルエッグにウインナー、レタスとトマトのサラダ、ミルクたっぷりのカフェオレ。
いつもの私なら残さず完食するのに、喉の奥に違和感があって、上手く食べ物が胃まで流れていかない。
「ゴメン、ママ。全部食べられない。」
私はママにそう告げると、椅子から立ち上がり、残された朝食の皿にラップをかけて冷蔵庫に入れた。
「つぐみ、大丈夫?アナタ、熱でもあるんじゃない?ちょっと待ってなさい。今、体温計持ってくるから。」
ママは救急箱から体温計を探し出し、私に手渡した。
熱を測ると、37℃2分、微熱だし学校を休むほどの体温ではない。
「うん。大丈夫みたい。学校行ってくる。」
「そう?具合が悪くなったら、早退してもいいからすぐに帰ってらっしゃいな。」
ママの心配そうな顔を後目に、私は鞄を肩にかけ、玄関を出た。
外の天気は灰色の雲が重く垂れさがり、今にも雪が降り出しそうだった。
冷たく張りつめた空気が頬を赤くさせ、お気に入りのオフホワイト色のフリンジマフラーを何重にも首に巻き付け、口元が隠れるまで引き上げた。
なんとなくだるいまま登校し、授業を受ける。
先生が教科書を読む声もなんだか遠くに聞こえる。
教室にいるのに、自分だけがひとり違う世界にポツンと取り残されたようだった。
沙耶とお弁当を食べているときも、ミートボールが上手く咀嚼出来なくて、早々にお弁当箱に蓋をしてしまった。
「つぐみ、大丈夫?今日、ずっと上の空みたいだけど。お弁当も全然食べてないじゃん。」
沙耶の茶色い瞳が、私のお弁当箱にプリントされた白いネコをみつめる。
「・・・実は朝からちょっと変なんだよね。食欲がなくて。」
「風邪じゃない?体温計った?」
「うん。でも37℃しかなかった。」
「家に帰ったら暖かくして、早めに寝たほうがいいよ?」
「それは駄目!」
自分でも思いがけないほど、大きな声を出してしまった。
「え?なんで・・・」
「だって・・・今日は金曜日だもの。」
金曜日は鹿内さんが家庭教師をしてくれる日。
そんな大切な日にのんびりと寝てなんていられない。
「・・・例の彼と会える日、か。そりゃ休んでなんかいられないか~。でもつぐみも変わったよね。
ついこの間まで、男なんてこの世から消えればいいのに~って眉をしかめて叫んでたのにね。」
「仕方ないでしょ。・・・恋しちゃったんだから。」
自分で言っておいて、恥ずかしさで顔が熱くなる。
「もう、告白しちゃえば?」
「無理。嫌われたくないもん。」
なにより告白して今の関係が壊れてしまうのが怖い。
「じゃあ、ちょっと甘えてみたら?」
「甘える?」
「そう。年下の可愛い女の子に甘えられて嬉しくない男なんていないと思うよ?
たまには思い切り甘えてみたらいいんじゃない?」
「・・・それも無理。あの人には女を武器にしちゃ駄目なの。」
「んも~。難しい男を好きになっちゃったね!」
沙耶はそう言ってひとつ伸びをした。
放課後は沙耶とのお喋りもそこそこに帰宅した。
だるいぐらいで休むわけにはいかない、いや休みたくない。
だってなかなか会えない鹿内さんと話せる貴重な日なのだから。
自室で制服から私服に着替える。
以前はトレーナーにジーパンを履くのが日課だったのに、最近はいつ鹿内さんと遭遇してもいいように、少ないお小遣いから洋服代を捻出して、沙耶お墨付きの可愛いブラウスや流行のスカートを着用するようになった。
今日も白いワンピースにピンクのカーディガンを選んでみた。
鏡に向かって桜色のリップクリームで唇をツヤツヤにする。
準備万端でふと振り向くと、窓ガラスが結露で曇っていた。
外は粉雪が風に舞っていて、白い世界を作り上げている。
私は窓ガラスに近づき、その水滴に「好き」と指で描いて、すぐに消した。
5時5分前になり、いつものように鹿内さんがドアをノックし、部屋に入ってきた。
今日の鹿内さんは白いTシャツに黒のカーディガン、黒いパンツとシックなスタイル。
長い前髪から少しだけおでこが見える。
顔を見るのが照れくさくて、鹿内さんの喉仏に視線を向ける。
開口一番、鹿内さんが私の顔をまじまじと見て言った。
「つぐみ、なんか顔、赤くないか?」
「大丈夫です。微熱です。朝、計ったら37℃しかなかったし。
それより今日の授業、よろしくお願いします。」
「・・・無理はするなよ?」
「大丈夫です。今日は数学でしたっけ?」
「・・・現代文だよ。じゃあ、173ページの問題、やってみて。」
「はい。」
私は参考書の173ページを開こうとした。
しかしいつも右端下にある数字が見当たらない。
「つぐみ、参考書、逆さま。」
「あ、逆さまでした。はい。」
私はあわてて参考書を上下逆さまにした。
あ、ほんとだ、やっとページ数が見えた。
と思ったら、文字が歪んで頭がぐるぐると超高速で回りだした。
持っていたシャーペンが手から滑り落ち、上体がぐらりと背中に向かって傾いた。
「おい!全然大丈夫じゃないだろ!」
朦朧とする意識の中、鹿内さんが私を抱きかかえて、ベッドに横たわらせてくれるのを身体全体で感じていた。
自分の息が荒くなっているのを今更ながら気づく。
鹿内さんの大きな手が、私のおでこに当てられる。
「熱いな。部屋に体温計あったっけ。」
鹿内さんは一旦自室に戻ると、電子体温計を持ってきた。
ワンピースの前ボタンを2個外され、私の脇の下に体温計を差し込んだ。
しばらくすると電子音が鳴り、鹿内さんが体温計を外してくれた。
「38度9分・・・結構あるな。」
鹿内さんは部屋を出て行くと、しばらくしてスポーツドリンクと冷やし枕を持って戻って来た。
「こういう時はまず水分補給だ。飲めるか?」
私は頷きながら、500mlのスポーツドリンクを口に含んだ。
その間、鹿内さんはずっと上半身を支えてくれていた。
冷やし枕を頭の下にひき、私は再び横になった。
「まったく。だから無理するなって言ったのに・・・。」
「すみません・・・。勉強が遅れるのが嫌で。」
「謝らなくてもいいから、今は何も考えず寝ろ。あと寝巻に着替えろよ。汗かくからな。」
そう言って立ち去ろうとする鹿内さんのシャツの裾を、私は無意識のうちに掴んでいた。
熱に浮かされている今なら・・・ほんの少しだけ甘えても許されるだろうか?
「・・・そばにいてください。」
「え?」
「今だけでいいから・・・そばにいてください。」
気が付くとそんな言葉が口から零れ落ちた。
心の表面張力が決壊してしまった。
固く閉ざされた扉の鍵が開き、隠しきれない気持ちが鹿内さんへ一直線に向かっていく。
短い沈黙がふたりの間に漂った。
私の言葉に、鹿内さんはやるせないような表情で目を伏せた。
ああ、私はまた鹿内さんに甘えて、困らせてしまっている。
「・・・わかったよ。眠るまでそばにいてやるから、安心して寝ろ。」
鹿内さんは私のいつも座っている椅子をベッドの側に引き寄せると、そこに座った。
そして私の熱い手の平をとり、鹿内さんの冷たい手で冷やしてくれた。
薄く目を開くと、私を優しくみつめる鹿内さんと目が合った。
鹿内さんは棚に飾られていたクマのぬいぐるみを持ってくると、そのぬいぐるみの腕を動かしながら、少し高い声音で私に話しかけた。
「つぐみちゃん、大丈夫?」
私はうん、と声を出さずに頷いた。
「つぐみちゃんは頑張り屋さんだから、僕はちょっと心配になるよ。」
「・・・・・・。」
「だから僕がとっておきのおまじないをしてあげる。・・・目を閉じていて。」
私はゆっくりと目を瞑った。
すると私の唇にぬいぐるみの口の部分が軽く押しあてられた。
ぬいぐるみのクマが私に優しいキスをくれた。
私はそのクマのぬいぐるみの真ん丸な黒い目を見ながら、目尻に溜まった温かい涙が頬に流れるのを止められなかった。
「・・・さあ。もう眠りな。」
鹿内さんの柔らかい声が私を包んだ。
鹿内さんが私を見守っていてくれる。
その安心感で、私は気が遠くなり、深い眠りに落ちていった。
私はただふわふわと夢の中を漂っていた。
・・・そしてそのまま一昼夜眠ってしまったらしい。
目が覚めると、もうお昼の12時だった。
体温計で熱を測ると、37度8分まで熱は下がっていた。
関節は痛いけれど、昨日よりはだいぶ回復しているのが自分でも判った。
私は昨日鹿内さんが持ってきてくれたスポーツドリンクを口に含むと、お腹が空いている自分に気づいた。
ふと自分の衣服を見ると、ちゃんとパジャマに着替えている。
私、自分で着替えたのかな・・・そのあたりの記憶が曖昧だった。
一階に降りていくと、ママが心配そうな顔で声を掛けてきた。
「つぐみ、大丈夫?おじや作っておいたんだけど、あなた昨日ぐっすり眠っていたから起こすのもなんだと思って・・・。熱はどうなの?」
「うん。だいぶ下がった。」
「学校には電話しておいたからね。」
「うん。ありがとう。私、お腹空いちゃった。」
「おじや、食べる?」
「うん。」
私はママから作ってもらった卵おじやを、ふーふーと冷ましながら口に入れていった。
「ママ、私にパジャマ着替えさせてくれた?」
「あら、私がつぐみの様子を見に行った時には、もう着替えていたわよ。
自分で着替えたんじゃないの?」
私はサーっと青ざめた。
もしかして鹿内さんが着替えさせてくれたとか?
なにそれ、恥ずかしすぎる!!
いや朦朧としながらも、パジャマだけは自分で着替えたのかも。
うん。きっとそうだ。
私は昼食を食べ終わると、自室に戻り、再び布団を被った。
昨日の自分の言葉はしっかりと覚えている。
いくら熱に浮かされていたとはいえ、私は何てことを口走ってしまったのだろう。
まるで駄々をこねる子供みたいだ。
だから子ども扱いされるんだ。
もう鹿内さんに合わせる顔がない。
私が布団の中で身悶えしていると、コンコンコンと部屋のドアが鳴った。
「はい」
すると鹿内さんが、部屋に入って来て私の顔を覗き込んだ。
私はただ恥ずかしくて、布団を極限まで被った。
「どうだ?具合は。」
「はい。おかげさまで、熱はだいぶ下がりました。」
「どれ」
鹿内さんは改めて私のおでこに手を当てた。
「うん。昨日よりはだいぶマシになったな。」
「あの・・・昨日はほんとにお世話になりました!なんか我儘なことも言っちゃったりして・・・」
「ああ・・・うん。気にするな。誰だって病気の時は気弱になるもんだ。」
鹿内さんは持っていた白いビニール袋を私に差し出した。
中にはカップアイスが入っていた。
「これくらいなら食えるんじゃないのかと思ってさ。」
「ありがとうございます!食べられます。ちょうど甘いものが食べたかったところです。」
「じゃあ、ゆっくり休めよ。」
「あの!もし鹿内さんが熱出したら、今度は私が看病しますから!」
「・・・その時はよろしくな。」
鹿内さんはそれだけ言うと、早々に部屋を出て行った。
わざわざカップアイス買ってきてくれたんだ・・・私の好きなバニラ味。
口に運んだアイスはまろやかに甘く優しく溶けて、みぞおちがキュンと鳴った気がした。
ただただ泣きたかった。
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