0章 彼女の正義・前編

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リュンケウスは片手で軽々と引きあげられ、濡れネズミのような体をよつんばいになって支えた。 連れのいかつい革靴が鼻先にあったが、抱え起こしてくれる気配はない。むしろ手をわずらわされたことにいらだっている。つきあいが長いから、わかるのだ。 グレナデンは、腰にさげた剣が細剣に見えるほど堂々たる体つきで、丸太のように太いむき出しの腕についた水気を払いつつ、みじめな子分を見おろしていた。逆立った髪は、もう片方の手に持った松明と同じ、烈火のような赤毛だ。 にらまれているうちに気分の悪さは増してきて、リュンケウスは洞窟の奥まで走っていくと、その場で吐いてしまった。 「勘弁しろよ、まぬけっ」 「仕方ないじゃない、体質なんだから」 先に舟を降りて奥の方にいたすらりとした長身の女が、歩み寄って心配そうに背中をさすってくれる。 汚物も気にしない優しげな仕草だったが、イスノメドラの話し方には、どことなく元貴族らしい、近寄りがたいような毅然(きぜん)とした雰囲気があった。 グレナデンの田舎臭いチタニアなまりとは雲泥の差だ──リュンケウスは口元を拭いながらそう思った。 チタニアというのは、ここよりもずっと北の未開の土地のことだ。 国も王も持たない野蛮人が住んでいて、ここトゥミス共和国では、そういう蛮族を一括(ひとくく)りにチタニア人と呼ぶ。 今も横柄にこちらを見下している赤毛の大男は、無知・無茶・無礼と三拍子そろったチタニア人の典型のような男だった。 「将軍……、こんな日に船出なんてどうかしてますよ」 グレナデンはただの流れ者の傭兵だが、そう呼べと言うので、そう呼んでいる。 自分も同じことを生業にしているが、盗賊まがいの下っぱ兵である。この思いやりのない将軍と組むようになってから三年、何度も死にかけているが、今回のはとくに酷い。 「そこが天才と凡人の違いさ。キルクークの野郎も、まさかこんな日に舟でくる刺客がいるなんて思わないだろ?」
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