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 墨の染みた穂先を滑らせると、喜平の目にはまだ描かれていない線まで浮かび上がるようであった。画才に恵まれたとはこういうことを言うのだろうと思うことがある。自らの目にしか映らない幻の線は紙の上で朧な形を残し、喜平の筆はそれを忠実になぞって枝先に集まった吉野桜の花を描き出した。  御一新の後、巷で多く見かけるようになった桜は流行の意匠であるらしく、喜平も下絵として多くの花を描いた。まだ外で咲く季節ではない。喜平が子供の頃から見慣れた山桜とよく似ていたが、枝先で開く花はより多く、人を飽きさせない華やかさを備えていた。  絵筆を置き、喜平は最後まで向き合えなかった父親のことを思った。記憶にある父の手は、掌に使った痕跡が集中していたが、息子の手は指先ばかりが使われている。人が見れば、手を見ただけで違う生き方をしているのがわかるだろう。きっと体がまとう臭いも違うはずだ。
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