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「どきどきして仕方がないんです」
診察室に入ってくるなり、男は早口で捲し立てた。
「他の大きな病院でも診ていただいたんですがどこにも異常はないと言われてしまって。心電図もMRI検査もしました。でも、確かにずっとどきどきどきどきしているんです。もう本当に、どうにかしたいんです先生」
私は男を観察した。
これといって特徴のない男だった。太ってもいなければ痩せてもいない、服装もいたってシンプルで、半袖シャツにチノパンというどこにでもいそうなものだ。いくぶん顔が青ざめ、不眠気味なのか目の下に隈ができているが、口調ははっきりとしているし、目もしっかりとこちらを捉えている。
「いつ頃からですか」
「ずっと」
「ずっと、というと……。だいたいで構いませんよ、一か月前とか、半年前とか」
「いえ、ずっとです」
「そうですか」
困ったな。
男の口ぶりから察するに、すでに何軒も病院をはしごしているのだろう。そこで問題がないと言われている以上、正直なところ、うちで診たとして結果は同じだろう。
ひとまず聴診器を当て、心音を確認する。やはり、というか、雑音もなく、規則正しい鼓動が聞こえるだけだ。
心因性のものかな、と、私は考える。
実際、最近どきどきして仕方がないとやってきた患者に話を聞くと、その原因が恋煩いだったなんていう冗談みたいな実話もあるのだし。
さすがに、目の前のいい年をした男のどきどきの理由がそれだとは思わないが。
「どんなときに、どきどきしますか」
「だから、ずっとです」
「それはまあ、心臓ですから、常に動いていますからね」
「そうなんです!」
突然、男が立ち上がって叫んだ。
半ば冗談のつもりで言った一言に強烈に反応され、唖然として男を見上げる。男は私の両肩をがっと掴み、思い切り顔を近付けた。
「そう! 心臓! こいつを止めたいんですよ! もう、ほんっとうにこいつが! 五月蠅くて五月蠅くて五月蠅くて五月蠅くて! ずっと私の体の中で動いているんですよ! 私が眠っているときでさえ、私の意志とは関係なく……ああああああ気持ち悪い! 気持ち悪い気持ち悪い! お願いします先生、お願いですから、これをどうにかしてください!」
男は縋るように私を見た。
この男はいったい何を言っているんだ。
そんなことできるわけがないじゃないか。
「そ、そんなことをしたら死んでしまうじゃないか」
「ああ、やはりそれしかないのですね……」
男は暗い目でぽつりと零すと、手を離しこの場を去ろうとする。
私はあわてて男を引き留めた。
「待ちなさい! 馬鹿なことを考えるんじゃない!」
一時凌ぎでもいい、何か、男の興味を引くことができないだろうか。
ふと、一つだけ思いついて、私は自身の鞄から財布を引っ張り出す。その中から一枚の紙切れを抜き取って男の手に握らせた。
「ここに行ってみるといい。きっと、君は君の鼓動から解放されるだろう」
男は訝し気に私と紙切れを交互に見ていたが、観念したように一度頷き、行ってみます、と答えた。
その後、彼が来院することはなかった。
私はあの日の行動を後悔していない。いや、あの直後は、本当なら自分が行くはずだったのにと、ほんの少しだけ思ったけれども。
休憩中、持ってきていた雑誌の記事に目を落とす。
そこには、あの男が写っていた。
あの日彼に渡したのは、私が心待ちにしていたバンドのライブチケットだった。あの時は気休めでも構わないから、とにかく、気分転換になればいいくらいの気持ちだった。
彼は今や、名の知れたメタルバンドのドラマーになっていた。
音楽の力すげえなと思いながら、彼のインタビュー記事を読む。
記事は、こう締めくくられていた。
『――その音を感じる瞬間だけ、私は私の心臓から解放されるのです。』
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