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翌日も雨が降っていた。時刻は午後3時。流石に昨日の今日では来ないだろうなと思っていた。多分、あれは社交辞令みたいなものだったのだろう。初対面の、しかも機械の腕を背中に取り付けている不気味な人間に再び会いに来る物好きなんか居るものかと思っていた。
コンコンコン
扉からノックが聞こえてきた。「どうぞ」と言うと、ガラッと戸が開いた。そこには昨日と同じように彼が居た。
「こんにちは! お言葉に甘えて、また来てしました」
またしても体はびしょ濡れだった。バスタオルを機械の腕で渡すと、彼は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「すみません。天気予報だと今日は晴れるって言ってたんですけどね。また、急に土砂降りになっちゃって」
「雨に濡れるって羨ましいですね」
私の口からポロッと言葉が漏れる。
「え?」
怪訝な顔をする彼。
「私は物心ついた時から病室に居るので、雨に触れたことがないんです。外から雨の音がザァザァ聞こえてくるだけ。空が暗くなるから、ただでさえ陰気な病室が余計に陰気臭くなるなぁって感じるだけなんです。
窓の外は病院の白い壁が見えるだけだし。外の空気とか雰囲気を私は今までに一度も味わったことがないんです。だから、いつでも外に出ようと思えば出られるあなたが羨ましい。
あーあ、私も雨に触れてみたいなぁ。病室の中で雨の音を聞いてるだけじゃなくて、あなたみたいに土砂降りの雨を身体中で感じたい。一度で良いから濡れてみたい」
今までに抑えていた気持ちが次々に口から溢れ出る。おそらく、外を知っている人間に初めて出会ってしまったからだろう。羨ましさ、或いは妬ましさ? それとも、外の世界からやって来た彼なら私の願いを叶えてくれるんじゃないかという期待からだろうか。
ふと、我に返る。彼の顔を見ると、黙って私の顔を見つめている。やってしまった……。彼にこんな愚痴を聞かせるつもりじゃなかったのに……。
「ごめんなさい! 伊佐里くんにこんな事を言うつもりじゃなくて。あの……」
慌てて弁解しようとする。あぁ、これで完璧に嫌われちゃったな。私の初めての友達になってくれそうだったのに……。今から誠心誠意、謝っても遅いだろう。私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
だが、彼が次に発した台詞は私の予想の斜め上だった。
「じゃあ、感じてみます? 土砂降りの雨」
え……、何を言っているの? だって、私は。
「あ、いや、あの……」
私が病気の事を一から説明しようとする前に彼の台詞が遮った。
「大丈夫。魚躬さんの身体はこの病室から出ませんから。ちょっと説明が面倒臭いんで、詳しい話はまたの機会に。今はこのボールを持っていてください。握らなくても、手のひらに触れているだけでいいんで」
「え?」
戸惑う私に手渡されたのはお祭りの屋台で売っているようなスーパーボールだった。ボールはガラス玉のように透き通っていて中には赤と黒の二匹の金魚が泳いでいる絵が描かれている。
「何これ?」
私がボールを手のひらに乗せていると、彼の右手が上から重なった。
「じゃあ、行きますよ。目を閉じて……」
言われるままに目を閉じる。ふと、体が軽くなったような気がした。
気が付くと、私は宙に浮いていた。伊佐里くんも私と一緒に浮いている。病室の天井付近をふわふわと漂っている。
「え? 何これ?」
戸惑う私に彼は人差し指で下を指した。下を見ると、手のひらを重ね合った私達がまるで眠っているように突っ伏していた。ポカンと口を開けている私に伊佐里くんは言った。
「幽体離脱ってやつです。あのスーパーボールは幼い頃にある事情で手に入れて、それ以来、僕はあのスーパーボールを持っていると幽霊と話せたり、幽体離脱できたりするんですよ。これだったら、一緒に外にお出かけできますよね」
「す、凄い……。こんな体験したことない! じゃあ、私、これから外に出られるんですね! あ、でも、幽体離脱ってことは魂が抜け出てる状態だから身体は心停止してる状態なのかな? そうでなくても、あんなふうに突っ伏してたら看護師さんが驚いちゃうかも……」
不安そうな顔をする私に伊佐里くんはチッチッチと人差し指を左右に振った。
「大丈夫ですよ。看護師さんが来る時間には絶対に間に合いますから」
「え? どうして?」
「それは口で説明するより、外に出てもらった方が理解が早いと思います。どうぞ、こちらへ。あ、壁はすり抜けられますよ」
その言葉通り、彼は病室の壁をすり抜ける。私も彼の後ろについて行った。
初めて見た外の景色。昨日の彼の言葉通り、病院の周囲は住宅街で大きなお店は無い。だが、病院の敷地内は広く、患者さんが歩き回れるような大きな庭園があった。小さな池と林。細い道が畝っている。
でも、私が一番驚いたのは外の風景では無かった。私の周囲には大粒の水晶玉、シャボン玉がたくさん浮かんでいた。浮かんだまま落ちもせず、逆に上に浮かぶ事もない。ガラス玉の飾りのようにそこに固定されていた。
「これは……」
「雨粒ですよ。美しいでしょう」
伊佐里くんが説明してくれた。
「生きている人間の時間と幽体の時間の感じ方は違うんです。幽体の方が流れている時間が早いから、動いている物体とかは動きが遅く見えちゃうんですよ。スローモーションって言えば分かりやすいですかね」
言葉の理解はできるが、実感は湧かなかった。全てが夢なんじゃないかと思うほど現実味が無かった。
だが、夢であったとしても嬉しかった。綺麗だった。周囲に散らばる雨粒が。今まで、雨は大嫌いだった。ただでさえ薄暗い部屋が暗くなるから。そして、薄暗い部屋に閉じ込められた私はいっそ死のうとさえ一度は思った。一生彩りの無い人生を歩むことに嫌気が差したから。でも、この世界では雨は薄暗い景色じゃない。一粒一粒が美しい透き通った宝石を見せてくれる絶景だった。
「……こんな景色、今まで知らなかった。知ろうともしなかった。あなたのお陰で初めて世界が美しく見えた。生きていて良かったって思った! 貴方に出会えて良かった! 本当にありがとう!」
私の目から自然と大粒の涙が零れ落ちた。同時に胸から温かい気持ちが湧き出ている事に気づいた。多分、これが「生きたい」という気持ちなのだろう。
私に新しい景色を見せ、生きる希望を与えてくれた少年は爽やかな笑みを浮かべて一言呟いた。
「もう一度、貴方の笑った顔が見たかったから」
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