硝子越しの君 after

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硝子越しの君 after

開きっぱなしのドアの向こうに凛とした背中を見付けた瞬間、夏の終わりを惜しむようにけたたましく鳴いていた蝉の声が消えた。 茶色みがかった柔らかな髪が窓からの優しい風に揺られて光る。 放課後の静まり返った教室で、窓際に座って外を眺める健人をスポットライトのように西日が照らしていた。 「委員会で遅くなるから先帰っとけって言ったろ」 もう少しその姿を眺めていたい気持ちを抑えてぶっきらぼうに俺は声を掛けた。 自分で声を発した瞬間に蝉のうるさい声が耳に戻ってきて、冷房の消えた教室の暑さを感じた。 健人は俺の声にパッと振り向くと、瞳を輝かせて破顔した。 「お疲れ様!もう帰れるの?」 「あぁ。……ってか鞄も持ってってたんだから、忘れ物取りに戻んなかったらお前が待ってんの気付かなかったぞ」 本当は健人が待っている予感がして念のために覗きに来たのだが、気恥ずかしくてそうとは言えずに自分の机の中を覗くフリをした。 「大丈夫。そのために窓からずっと校門見てたから」 窓の外を指差しながら屈託無く健人が笑う。その頭を俺はコツンと軽く叩いた。 「大丈夫じゃねーだろ、まったく」 「だって……特に用事も無かったし、直澄と一緒に帰りたかったから」 健人は俺が叩いた場所を手で抑えながら不服げに口を尖らせた。 「だったら教室で待ってるって連絡しろよ」 「どうせそしたら『帰ってろ』って言うじゃん、直澄」 「う……まぁ、言うけど」 「でしょー?」 「それにしたって図書室とか駅前のコンビニとか、冷房効いてるとこで待ってろよ」 しっとりと汗で湿った首元を眺めて溜め息を吐く。俺が「熱中症にでもなったらどうするつもりだ」と小言を言うと、健人は「水分はちゃんととってました!」とそっぽを向いた。 俺が素直な気持ちを吐露してから、健人はちゃんと自己主張をするようになった。以前のように怯えて体を小さく竦めることも、今ではほとんど無くなった。そして何より、前よりずっと明るい顔で笑うようになった。 そんな小さな変化の一つ一つがたまらなく嬉しい。 こんなことならもっと早く素直に想いを告げていれば良かったとも思うが、困った顔は困った顔で可愛くていつまでも堪能していたかったのだから仕方ない。それに顔を見ればつい意地悪してしまうような男が健人の相手でいいのかと、どこかで葛藤もあった。 「まったく……。わかったよ。それより電車乗り遅れるとヤバイから出るぞ」 健人の横を通り過ぎて窓の施錠を済ませると、健人は「はーい」と言って跳ねるように立ち上がった。 「健人は何味にする?」 駅のホームに設置されたアイスの自販機が見えてきたので、俺は指差しながらそう尋ねた。 「え?!何?おごってくれるの?!」 「待っててくれたお礼」 「へぇ~ふーん」 暗に「待っててくれて嬉しい」と告げたことが伝わって、健人はニマニマと笑いながら「ストロベリーチーズケーキ」と答えた。 「ほい」 健人にそれを手渡して、自分用にはチョコレートアイスを購入し、ペリペリと包み紙を剥いていく。ゴミ箱にそれを捨てて一口目にかぶりつきながら振り返ると、不器用な健人はまだ包み紙を剥くのに手間取っていた。 「はい、交換」 一口食べていいよ、と自分の分を手渡して健人のアイスをもぎ取った。そして変な所で千切れてしまった包装紙を丁寧に剥いて、一口食べてから健人に戻した。 「ありがと」とゴミを捨てにいった俺の背中にポツリと健人が呟いたのが聞こえた。 それぞれにしばらく無言でアイスを頬張っていると、健人が口を開いた。 「あの……さ、今日直澄のウチ行ってもいい?」 上目遣いの健人の瞳が西日に照らされて光る様に思わず心臓が跳ねる。アイスを飲み込んだ喉がゴクリと鳴った。 「……いいよ。てか金曜だしそのまま泊まれば?」 平静を装うために向かい側のホームに視線をずらしながら俺は答えた。 「ホント?やったー。親に連絡しよーっと」 嬉しそうにスマホを取り出す健人を見ながら、俺も「健人が来る」と母親に短くメッセージを打った。 正式に付き合い始めて数ヶ月、夏休みを挟んだこともあって健人は俺の家にちょくちょく泊まりにくるようになった。 泊まりにくる度に健人の服や下着や歯ブラシが我が家に増えていって、今ではいつ泊まりにきても問題ないレベルになっている。俺の両親も健人をすっかり気に入って、「健ちゃん次いつ来るの?早く呼んできて!」などと言い出す始末だった。 しかしそうやって何度も泊まりにきていても、家では流石にコトに及ぶチャンスが少なく、キスや軽いスキンシップはあれど最後までしたのは2回きりだった。 「……なぁ、久しぶりに最後までしたいんだけど」 明日は朝から両親二人で観劇に出掛けるらしいんだよね、と、母親とメッセージのやり取りをしている健人の耳元で囁いた。ビクリと震えてフリーズした健人の目を見ながらニッコリと微笑むと、彼の顔が見る見る間に赤く染まった。 「もう!アホ澄!何回こういうトコでそういうのヤメテって……!」 囁いた方の耳を押さえながら健人が小声で叫ぶ。俺はケタケタと笑いながら、何度でも同じ手に引っ掛かる健人に抱きつきたい衝動を抑えた。 「は~ヤバイ。キスしたい」 人がほとんどいないのをいいことに俺がそう言うと、健人は顔を覆ってしゃがみこんでしまった。 「も~ホント最悪!!」 「じゃあ俺のこと嫌いになる?」 隣にしゃがみこんで顔を覗き込むと、健人はフルフルと首を横に振った。 「あー、俺の彼氏は優しいなぁ」 「バーカ」 少し赤みの治まった顔でイーっと歯を剥き出して悪態をつく様も愛らしい。 「そんなに意地悪するならこのまま帰るからねっ」 「ん~それは困ったなぁ。どうすれば来てくれますか?健人さま」 「……ん~じゃあ日曜日、俺の買い物つきあって」 「お安い御用です、健人さま。他にも何かございますか?」 「あのカフェにも行きたい」 「あぁ、あの、前にランチが美味しそうって言ってたところですか?」 「うん」 「ではそこはワタクシがお詫びにおごらせていただきます」 「……プッ!もぅ、なんなのさっきからその喋り方~!」 胸に手を当てて恭しく一礼をした俺を見て、健人がたまらず吹き出した。 「悪役令嬢と執事……かな?」 「何それ~俺が悪役令嬢なの~?ウケる……ククッ…アハハハ!」 お互いの小芝居に耐えきれなくなって健人がゲラゲラと笑い出す。俺もつられて声を上げて笑った。健人とならばこんなくだらない会話も幸せだ。 電車の到着を知らせるアナウンスが流れて、笑いながら俺達は立ち上がった。 「……あ、そだ。ちゃんと買い物行けるように、手加減してね?」 電車がホームに滑り込む直前、俺のシャツをクイッと引いて、頬を赤らめた健人が小さな声でそう告げた。 「お、ま……っ」 今度は俺が赤面する番だった。 目の前でドアが開いても動けない俺の腕を引いて、健人が半歩先に電車に乗り込む。 健人はそのまま反対側のドア付近に陣取って、ニシシと満足げに笑った。 「仕返し~」 「ったく、今ので日曜日の保証はなくなったぞ」 ドアにもたれかかりながら健人と体が触れ合う距離に立って、俺も負けじとニヤニヤ言い返す。 「え~ダメだよ!ユリさんの誕生日プレゼント買いに行くんだから」 「はぁ?!買い物ってそれかよ」 ユリとは俺の母親のことだ。そういえばもうすぐ誕生日なのをすっかり忘れていた。 「そ~だよ~。日頃お世話になりっぱなしだから、って親からお金も持たされてるんだからね!俺からの分も合わせて素敵なの見つけないと!だから日曜日は絶対だよ!」 「はいはい」 夏休みなど毎週のように泊まりに来ていたので、一度健人の母親が挨拶に来たことがある。その時にウチの親が食費を払いたいという健人の母の申し出を固辞したので、代わりに手土産やら何やらいつも持ってくるなとは思っていたが、とうとう誕生日プレゼントとは……。 どうやらあれ以来、母親同士も仲良くやりとりしているようだから、その流れでそんなことになったのだろう。 「ていうか、近い」 ようやく“友達”の距離じゃないと気付いた健人がそう言って俺の胸を押した。 健人は感情が顔に出やすいから、学校や外では“恋人らしいこと”はするなと最近念を押されている。自分としてはバレてもかまわないし、実のところ学校の皆にはバレバレだと思っているのだが、健人がそれで自分から離れていったら困るので一応それに従っている。 というのも、付き合いたての頃にそれまでと同様に構ったり触れたりしていたら、耐えられなくなった健人にキレられて一週間まともに口をきいてもらえなかったことがあるのだ。あんなことは二度と御免だ。 “お前ら何やってんだよ、向かい側から丸見えだったぞ。イチャつくなら家でやれ” 本当はさっき田口からそんなLINEが来ていたけれど、健人にはそれは黙っておこう。 fin
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