君を泳ぐ 1-1

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君を泳ぐ 1-1

キラキラ、キラキラ、その絵筆が生み出す世界はいつだって鮮やかな色彩で彩られていた。 高く澄み渡った空のようだったり、深い森の中のようだったり、あるいは海の底のようだったり……。 抽象的に色だけで描かれるその世界にはどんな物語が綴られているのか想像を巡らせながら、次にそのキャンバスにどの色が乗るのかを眺めているのが好きだった。 最後に必ずサインと共に絵のどこかに描かれる小さな黒い魚になって、完成したその絵を泳ぎ回るのが好きだった。言葉少ない彼と、その瞬間は深く繋がれる気がしたから……。 昼休み、須崎尊(すざき・たける)が蒸し暑い廊下をクラスメイト数名と購買に向かっていると、隣の隣の教室から漏れた冷気がヒヤリと頬をかすめた。その空気に乗って聞き慣れた声が耳に届いて、尊は反射的にその在処を探した。 「っははは!」 開け放たれた教室のドアの向こうに、尊はその姿を見つけた。 窓際に寄りかかってクラスメイトと談笑する彼の白い肌やボサボサの真っ黒な髪が、降り注ぐ夏の日差しに照らされて光って見えた。彼の話し相手は対照的に、真っ黒に日焼けした肌に白い歯を覗かせて爽やかに笑っていた。 それはここ最近、尊がよく見かける光景だった。 尊が探した声の主は真山犀(まやま・さい)といって、尊の幼なじみであった。あまり社交的でない彼があんな風に声を上げて笑うなんて珍しい。自分の興味あること以外にはてんで無頓着な彼が尊以外にあんな風に懐くなんて、16年一緒にいて初めてのことだった。 ギュッと胸を掴まれるような感覚がしたが、犀の世界が広がるのは良いことなのだと尊は自分に言い聞かせた。 「おーい尊、どうした?」 他のクラスの前で足を止めた尊に、一緒に購買へ向かっていたクラスメイトが振り返って訊ねた。 「いや、何でもない。……あ!パンが売り切れる前に急いで行かないとだよな!」 ことさら明るく笑って走り出した尊に、クラスメイトは少し不思議そうに首を傾げた。 実はこの学校に、尊と犀が幼なじみであることを知っている人間はほとんどいない。別に意図的に隠している訳では無い。単にクラスが被らず、朝夕美術室に入り浸っている犀とは登下校時間も合わないせいで、二人に接点があると知られる機会が無かったせいだった。 けれど一方で、それを無闇に他人に知られたくないと思う自分もいた。 ただ単に“幼なじみ”だという事実が、尊には“二人の大事な秘密”のような気がして……。 犀と出会ったのは小学1年生の時、近所の図書館でだった。 母親に連れられて渋々行った絵本の読み聞かせ会で、先頭で目を輝かせて座っていたのが犀だった。絵本が1ページ、また1ページとめくられる度に表情を変えて喜ぶ姿に、尊は釘付けになったのだった。 それからは再びその男の子に会いたい一心で足繁く図書館に通った。両親は息子が本好きになったと勘違いして喜んだが、尊は毎回本などそっちのけでその男の子を探して図書館中を歩き回っていただけだった。だから本当にもう一度その子に会えた時には嬉しくて、見付けた瞬間思わず彼のすぐ側まで駆け寄っていた。 けれどいざ近付いたら何と話し掛けたらいいか分からず、とっさに近くにあった絵本を掴んで彼に差し出した。無言で本を突き出された彼はずいぶん驚いた様子で固まっていたが、尊が恐る恐る「これ一緒に読もう」と誘うと、あの日見たのと同じ零れんばかりの笑顔で頷いてくれた。あの瞬間は天にも登る気持ちだったのを覚えている。 二人で絵本を読む姿を見た親同士が連絡先を交換してくれたので、それから犀と時々図書館で会うようになった。母はきっとあの姿を見て、自分の息子が足繁く図書館に通いたがった理由を悟ったのだろう。 あの歳にして犀の世界はとても広くて、尊は犀と同じ視線に立ちたくて本をたくさん読むようになり、勉強も頑張るようになった。おかげでこうして無事、同じ高校に通うことが出来ている。 今思い返しても恋の力は偉大である、と尊は心の中で独り言ちた。 購買から教室に戻る際にもう一度犀の教室を覗くと、彼は一人で黙々と弁当を食べていた。 毎回それを確認する度に、尊は無意識にホッとしてしまう。そうしてそんな自分に気が付く度に、自己嫌悪に陥るのだった。
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