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君を泳ぐ 1-2
放課後、尊は美術室のドアを静かに開けて中に入った。
尊は美術部員では無かったが、時々見学という名の暇つぶしに来ていたのだった。
そのため美術部員だけは二人の仲が良いと知っている。けれどこの部に出入りする人達は良い意味で他人に無関心なので、仲がいい理由を訊かれることも、他人に言いふらされることも無かった。
この高校の美術部はかなり自由度が高い。真面目に作品作りに取り組む人もいれば、漫画や小説を読んでいるだけの人もいる。顧問の先生もたまに顔を出す程度だ。なのでよほどの大声を出したり他の部員の迷惑になるようなことさえしなければ、部員でない者がここに居ても咎められるようなことは無かった。
ちなみに尊がここに来る理由はただ一つ、犀が何かを描いている姿を眺める為だけだった。
尊には芸術の何たるかは理解出来ないが、犀の描く絵だけは昔から好きだった。そしてそれ以上に、一心不乱に作品に取り組む犀の姿が好きだった。
幼い頃はクレヨンで犀が何かを描いて、それを見て尊が想像を巡らせ、それを聞いた犀がさらに何かを描いて……というような遊びをよくしていた。流石に今は犀から意見を求められでもしない限り、完成するまで何も言わない。コンクールに応募する程になった犀の世界を邪魔したくはないからだ。
だが、必ず最後に描き入れる小さな魚を画面のどこかに忍ばせた後、振り返って「どうかな?」と尋ねる笑顔だけは昔のままだ。
制作過程を見るのも好きだったが、何よりその瞬間に立ち合いたくて、尊は週に1、2度はここへ来ていたのだった。
けれどいつもキャンバスやスケッチブックに向かっているはずの彼は、今日に限ってぼんやりと窓の外を眺めていた。
そっと後ろに近付くと、すぐにその理由が分かった。
(あぁ~、水泳部……かぁ)
犀は三階の窓からキラキラと輝く水面を見おろして、真夏の太陽を映したそれを切り裂かんばかりに泳ぐ人影を見つめていた。
「水泳部見てんの?」
「……うん」
尊の問いに、犀は気もそぞろに答えた。その横顔をそっと覗くと、階下を見つめる瞳はキャンバスに向かうのと同じくキラキラと輝いていた。
尊はそれを見たとたん、胸がズンと重くなるのを感じた。犀がここのところ楽しげに話をしている相手はまさに、今見つめている水泳部のエースだったからである。
どうしてだろう。尊はいつからか犀の隣は自分だけのものだと無意識に思っていた。あまりに隣にいることが当たり前すぎて、好きだと想いを告げることすらしていないくせに、そこは自分に約束された席だと思い込んでいたのだ。
犀がいつか誰かと結ばれてしまったら、ただの幼なじみである自分には簡単にそんな資格が無くなってしまうのに……。どうしてそんな傲慢でいられたのだろう。
その日は結局、犀は絵筆を取ることもなく、ずっと外を眺めたまま部活を終えた。
それからというもの、毎日毎日、犀は美術室の窓からプールを熱心に見つめるようになった。それを裏付ける白いままのキャンバスを目にする度、犀と自分との縁が切れてしまったような気がして尊は切なくなった。
昼休みには相変わらず水泳部のエースと談笑する犀の姿もよく見かけた。
「そんなに好きならさっさとコクればいいのに……」
二週間ほど経った頃、とうとう耐えきれなくなった尊が吐き捨てるようにそう言うと、プールを見ていた犀が目を見開いて振り向いた。
「??告る?誰に?何を?!」
意味が分からないという顔で犀から矢継ぎ早に質問が飛んできた。
尊は思わず顔を逸らして、窓から身を乗り出すようにして空を眺めた。そして絞り出すように小さな声で言葉を紡いだ。
「だって犀……好きなんだろ?水泳部の……アイツが」
言葉にするのがどうしても辛くて、最後はほとんど声にならなかった。
「……は??何?聞こえない!」
犀も尊に負けじと小さな背を精一杯伸ばして窓の外に身を乗り出した。万が一落ちたら大変なので、慌てて尊は自分も体を戻しながら犀の肩を掴んで引き戻した。
「今までお前が絵を描かない日なんて1日だってなかったのに、ここんとこ毎日毎日、絵も描かずにずーっとプール見つめてんじゃん……」
「……あぁ」
そう言われてみれば確かに、というような顔で犀は頷いた。尊は犀の耳元に手を当てて、一度強く目をつぶってから意を決して囁いた。
「ホラ、最近よく喋ってる、お前のクラスの……あの、ほら、あいつ、水泳部のエースのあいつとか、さ……お前、好きなんじゃねぇの?」
それを聞いた犀は目を丸くして、バッと勢い良く尊に顔を向けた。
それから犀はしばらく驚いたままの表情で、不安げに眉尻を下げる尊を見つめた。そして数回ゆっくりと瞬きをしたあと、突然ブッと吹き出した。
「なにそれ!ないよ!!ない!!そんな風に見えてたの?あははは!」
よほどツボに入ったのか、片手をヒラヒラ振って腹を抱えながらゲラゲラと犀は笑い出した。
「コホン」
美術部顧問が咳払いをしてたしなめたので、犀はしまったという表情で口を抑えた。そして今度は犀が尊の耳に両手を添えて、声を潜めてその理由を教えてくれた。
「あのね、僕はプールであのコを泳がせてただけだよ」
それだけを告げると、尊は手をパッと離して“わかった?”と言わんばかりに得意げに笑った。尊はかがめた腰を戻すのも忘れて首を傾げた。
(……あのコって、誰?!)
尊も知っている前提で言われても、何のことやらサッパリだった。そんな尊の表情を見て、犀はまたパチパチと瞬きをした。
「あれ?わかんない?……ホラ、このコ、このコ!」
弾んだ声で言いながら、犀は空に人差し指で2センチ程の∞のようなものを描いて、さらにそれをヒラヒラと動かすような素振りをしてみせた。
また訳の分からないことを、と眉間に皺が寄ってしまう。犀はそんな尊を見てちょっと困ったように笑うと、スケッチブックを手にとって、黒くて小さな魚をそこに描き込んだ。
「ホラ、このコ、いつも僕の絵にいるでしょう?僕の胸を中にね、ずっとこのコが住んでるんだ。いつも僕の頭の中やキャンバスだけを泳いでいたけど、どうしても外の世界、特に水の中を泳がせてみたくなったんだよね。ここから水が光るのを見たらあの子が踊るみたいに泳ぎだすのを感じたから!だから最近ずっと、あの中で泳がせてたんだよ。……そうそう!毎日毎日ねぇ、泳ぎ方が違うんだよ!本当はもっとプールを近くで見て泳がせたかったんだけど、夏の大会前で許可が下りなかったんだ。でも、ちょっと遠いけどここからもバッチリ見えるでしょ?水の動きとか光の反射とか、見れば見るほど面白くって!」
一気呵成にしゃべり出すと同時に、犀はスケッチブックに水面の反射やら水の流れやら何やらを鉛筆で描き出した。犀は普段はあまり喋らないが、一度喋り出すと堰を切ったようになる。
描かれた水紋には確かに、そのどれもにいつものあの黒い魚が泳ぎ回っていた。
「昼休みもね、真野君に泳いでる時の感覚とか感情とか色々教えてもらってたんだ。尊も知っての通り、僕は筋金入りのカナヅチだからね。この子もそんな気持ちかな、とか考えながら聞くと本当に面白くって」
高速で鉛筆を持つ手を動かしながら、犀はキラキラした瞳で生き生きと語った。
あまりに予想外の答えが返ってきたせいで、尊はしばらく呆然とスケッチブックを見下ろすことしか出来なかった。
「……尊?」
犀がピタリと手を止めて尊を見上げた。気が付けば大きな紙を埋め尽くすほどに様々な水の描写が描かれていた。
「尊……?僕、何か怒らせるようなことしちゃった?」
フリーズしたまま返事をしない尊を犀は不安げに見上げた。
「いや、ちょっと……混乱してるだけ」
「混乱?」
「……うん」
「はい!皆さんそろそろ下校時間ですよ~」
尊がどう答えたものかと考えている間に、顧問のそんな声が美術室に響いた。
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