君を泳ぐ 2-1

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君を泳ぐ 2-1

あの日君がくれた黒い一匹の魚が、今も僕の心に泳いでいる あのコの存在がどれだけ僕に勇気をくれただろう とても小さくて、けれどとても大きな まるで君そのもののような、同時に自分の分身のような あのコが胸に住んでいる、それが僕の誇りなんだ 「……犀っ」 眼前の尊に切羽詰まったような声で呼ばれて、犀は背中がゾクリと疼いた。尊の大きな黒い瞳が熱を帯びて歪む。その熱に絡め捕られて犀が薄く口を開くと、尊の熱い舌が中へ滑り込んできた。 「ぅんっ……」 舌を舌でなぞられる感触に全身がビリビリと甘く痺れる。犀は尊の優しい手に導かれてベッドの上に沈み込んだ。 約10年の片思いが実って、この前ようやく尊と恋人になれた。こうしている今でもちょっと実感が湧かないのは、二人以外にその事実を知る人間がいないからかもしれない。 明るくて快活で常に人の輪の中心にいる尊とは十年来“秘密の”幼なじみだった。長いこと片思いだと思っていたのに、先日それが両思いであったと発覚してお互いに驚いた。 それからはお互い恋人であることを確かめ合うように、甘いスキンシップを重ねている。 犀も尊も互いに仲が良いことをおおっぴらにしてこなかったのは、きっと出会いが関係しているのだろうと思う。 小学校は学区が違ったから、尊とは図書館で会うことがほとんどだった。学校でどんなに嫌なことがあっても、自分には“皆の知らないたった一人の味方”がいるのだと思うだけで強くなれた。 それに皆には秘密で繋がっていることで、その繋がりがより強固になっているような気がしていた。 だから中学に上がって同じ学校に通うようになっても、暗黙の了解のように、「ほとんどぼっちの静かな犀」と「活発で明るい人気者の尊」とはあまり学校で交わることはなかった。 お互い口に出したことは無かったが、二人だけの“内緒”が心地よかったのだと思う。 「あっ……待って、尊……っ」 はだけたシャツの隙間から尊の熱っぽい手が入ってきて、犀の腹部から胸元をなぞった。まだ挿入までは至っていないが、こうした触れ合いは幾度となくしている。けれど何度経験したところで、慣れるどころか胸の苦しさが増すばかりだった。 犀は自分の気持ちを言葉にして相手に伝えるのが苦手だ。いや、それ以前に自分の気持ちを言語化するのが苦手と言ってもいいかもしれない。 尊に対する感情が恋心だと気が付いたのも、中学に上がってからのことだった。 それまでは二人きりで会っていたから、犀は尊がモテることを知らなかった。明るくて優しくて見た目も良いのだからモテない訳がなかったのだが、他の人と接する尊を見たことが無かったせいで気付けなかったのだ。だから中1のバレンタインデーに尊が山のようにチョコをもらっているのを知った時には、心臓を貫かれたような痛みが走った。 冗談めかして渡されたブラックサンダーも、丁寧にラッピングされた手作りチョコも、犀にとっては同じ脅威だった。 (僕と尊の関係は永遠じゃないんだ……) それを思い知らされて、その日犀は夜通し泣いた。と、同時に自分の尊に対する感情が恋であると知ったのだった。 それから学校での尊を意識して見るようになると、確かに尊を見る女子の瞳は憧れや恋心に満ちていた。ちょこちょこ呼び出しや手紙で告白されている姿も目にするようになった。けれど尊自身から一切そうした話を聞かされることはなかったので、犀は尊に自分が部外者だと思われているのだと感じて苦しかった。 ある日痺れを切らして確認すると、尊は「気付いてたんだ」と少し困ったような顔で笑った。 「誰かと付き合ったりしないの?」 「しないよ。彼女は欲しくないから」 「過去に付き合った相手は?」 「……いる訳ないよ」 その答えに少しの違和感を感じつつ、犀は「ふぅん」と興味無さそうに返事した。内心、安堵の気持ちでいっぱいだったが、何故だかそれは口に出してはいけない感情のような気がした。 だから尊が犀と同じ高校に通うことが決まった日、犀は自分の尊への気持ちを絵に込めて描くことを決心した。 もう自分の中だけに気持ちを閉じ込めておくのは限界だったのだ。 文字や声にしてしまったら尊はあの日のように困ったように笑うかもしれない。でも、絵なら伝わらずとも喜んでくれる。そんな確信が犀の中にあった。 そして、どんなに考えても自分の感情を表す形が見つからなかったので、それまで描いていた写実的な絵から、色による抽象的な表現方法に変更することにしたのだった。 その絵に黒い小さな魚を描き込んだのは尊の些細な発言がきっかけだ。 「小さい頃、一緒に海の中を描いたのを思い出すなぁ」 初めて取り組む抽象画に四苦八苦していた犀の背中に、尊がポツリとそう言ったのだ。 出会ったばかりの幼いあの頃、尊が一番最初に犀に選んでくれた絵本『スイミー』に倣って、まだ入ったこともなかった海を二人で想像しながら落書きして遊んだ。色取り取りのデタラメな海の中をスイミーに似た“僕らだけの魚”が泳ぎ回る、そんな遊び……。尊は早々に描くほうには飽きてしまったが、犀が描くものに物語を付けてくれたりアイデアを出してくれたりしたのだった。 だから尊がそれを思い出すと言った瞬間、ずっと長い間それとは知らず自分の胸の中にその黒い魚が住んでいたのだと気が付いて、絵の中を泳がせることにしたのだった。 黒い魚にしたのは『スイミー』に倣ったからだけではない。 犀にとって黒は特別な色だからだ。 真っ黒で真っ直ぐなしなやかな髪に、大きな黒い瞳。出会ったあの時からよく着ている黒いTシャツ。尊を特徴づける黒はとても美しい。 それに犀の一度ついた寝癖が直らないのが嫌で嫌いだった固い髪を「カラスみたいに陽に当たるとキラキラしてキレイ!」と誉めてくれたのも尊だった。それを聞いた彼のお母さんが慌てて「ごめんなさいね」と謝ったが、そもそもカラスのことをキレイだと誉めたのは犀の方だったので、犀は純粋に嬉しかった。 だから犀にとって黒は昔から特別で、大好きな色だった。 さらにもう一つ。 中学の時の美術の先生が「黒というのは実は一番派手な色です」と言っていたのも大きい。 派手な色ならば目にも付きやすい。小さな声でも分かりにくくても、たとえ遠くに行ったって、一番派手な色ならばきっと尊に見付けてもらえる。言葉にならない自分の声を、いつか尊に見付けてもらえたら……そんな想いを込めて、犀はあの黒い魚をキャンバスに忍ばせていたのだった。
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