硝子越しの君

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硝子越しの君

俺とこの世界とは一枚の曇り硝子で隔たれている。 俺は肉眼では“ハッキリと”この世界を見ることは出来ない。俺の世界は、おそらく一生、薄ぼんやりとその輪郭を失ったままだ。 眼鏡越しに見えるのは、あくまで“二重の硝子越し”の限られた世界だ。 事の始まりは忘れもしない、小学校三年生の春だった──。 物もらいの切除手術をして数日後、眼帯を取った俺の左目には何故か薄い曇り硝子がはめられていた。ほとんどの人がそんなことは起きないのに、何故俺だけが……と、幼いながら理不尽に思ったのを覚えている。 それから先は、坂から転げ落ちるように──とでも言うのだろうか、順当に左右の視力が落ちていった。 だから、俺から眼鏡を取り上げて、目が悪くもないのにそれをかけては「クラクラする」などと言っている奴を見ると少し恨めしくなる。 「今どんな風に俺が見える?」 そう、まさに今俺の目の前で無邪気に笑っているコイツのように……。 一旦かけて直ぐに外した俺の眼鏡を弄んでいる健人を、俺はよく見えない目で睨みつけた。 「ぼやけて歪んでてすごい不細工」 眼鏡を取り返しながらつっけんどんにそう答えると、健人はガキみたいにプウと膨れて、「じゃあ今は?」と眼鏡をかけ直した俺に聞いた。 「お多福みたい」 俺がまともに顔も見ずに答えると、健人はあからさまに傷付いた顔をして手近にあった俺の消しゴムを投げつけた。 「直澄のバカッ!アンポンタン、眼鏡ザルの分からず屋っ」 健人は少し目を潤ませながら、でもあくまで「悪ふざけですよ」といった調子で直澄に罵倒を浴びせた。 (わかってるよ……ホントは、わかってる) 自分に当たって落ちた消しゴムを拾いながら、直澄は口には出さずに独りごちた。 そう、解っているのだ。コイツがなんでこんな俺をかまうのか、俺にどんな答えを求めているのか……。 でも、この二重硝子を取り除いた世界で“ハッキリと”コイツの顔を見る事が出来たらどんなにいいだろう……と思うと、どうしても素直になれないのだ。 艶のある透明な肌に大きめの瞳、瞬きすると揺れる長い睫毛、血色の良い柔らかそうな唇、声を上げて笑う度にフワフワと動く髪……。健人を構成するパーツ一つ一つが俺の心をザワつかせる。 けれど硝子越しじゃない世界で見るコイツは、もしかしたら俺が知っているコイツよりももっと魅力的なのかもしれない……などとバカなことを考えて悔しくなる。 もし、この二重硝子を破ることが出来たなら、きっと素直に言ってやるのに……。 “健人の顔も中身も、俺が知ってる健人全部が好きだ”…ってさ。 「な……何だよ、急に黙って……。怒った?」 消しゴムを拾い上げたきり、俺が無言でいることに急に不安になったのか、健人はおっかなびっくりそう尋ねた。 「いや……」 そう言って小さく首を振った俺が見つめた先には、八つ当たりした先から後悔の念でいっぱいになって、小さくなっている健人がいた。 「ふはっ」 うなだれた耳と尻尾が見えそうなその姿に思わず吹き出してしまう。可愛いなと思うと同時に、俺のこととなるとこんな些細な出来事に本気で一喜一憂してくれるんだという実感が急に湧いてきた。 その瞬間、俺は今までこだわってきたこと全てがどうでもよくなった。 「なに?なんで笑ってるの?」 「いやぁお前ってホント可愛いなと思って」 「は?!!え??なに、急に……っ」 一瞬で首まで真っ赤になってしまった健人を見て、俺はまた吹き出した。 「いやぁ、眼鏡が無くてもちゃんと見えたら、健人のキレイな顔がもっとキレイに見えんのかなって、ずっと思ってたんだけどさ。そんなの関係ないな。お前はまず中身が可愛くってキレイなんだもんな」 自分でもなんでそんな心境の変化が起きたのか解らない。けれど、まるで憑き物が取れたように突然身体が軽くなるのを感じて、スラスラと正直な想いが口をついた。 独り言でも言うかのように淡々とそう言った俺を、健人は目を円くして凝視した。 「な、直澄がおかしくなった!!!」 「いやいや正気、正気」 「ううう嘘だっ!か、かかからかうなよっ!」 予想以上の反応を見せる健人の姿に、俺は思わず笑みをこぼした。 「揶揄ってるつもりはないけど?」 「嘘付け!そーやって俺の反応見て楽しんでるだけのくせに……!」 わざとらしく腕組みをして真っ赤になった顔をぷいと横に向ける。内心喜んでいるくせに素直じゃない健人の横顔を見ながら、俺はおもむろに眼鏡を取ると、その横顔15センチ手前まで顔を近付けた。 「だってさぁ、悔しいじゃん。この距離じゃないと肉眼で見えないんだぜ?キスする時も邪魔そうだしさぁ」 「―――っっ!!!」 健人は顔の近さに驚いて声にならない悲鳴を上げ、慌てて立ち上がった。その拍子にガタンッとけたたましい音を立てて椅子が倒れ、クラスの皆が何事かと一斉に二人を見た。 静まり返った教室内の注目を他所に、俺は平然と眼鏡をかけ直し、突っ立ったまま固まっている健人に微笑んだ。 「だからお前みたいに目がいい奴が羨ましいってずっと思ってた」 俺のその一言で、「なんだ、また二人でじゃれ合ってるだけか」と周囲の関心が逸れた。だが、茹で蛸みたいに真っ赤になった健人だけは、ますます怒りを露わにして握り拳をフルフルと震わせながら俺を睨みつけた。 「な……直澄の……、直澄のバカっっ!!!大っ嫌い!!」 予鈴が鳴るのも構わずに、健人はそう叫んで教室を飛び出していってしまった。 「ふふっ。あーあ、やっちゃった」 ニヤニヤ笑う俺とは対照的に、再び教室がザワついた。 「えっ?今の伊藤?!どしたの?」 「伊藤君があんな声荒げるなんて珍し~」 「なに、え、なに??」 騒ぎの最中、後ろからツンツンと突かれて俺は後ろを振り返った。 「吉川~、お前伊藤に何言ったんだよ?」 俺の真後ろの席の田口は、俺に小声で耳打ちしながら呆れたように目を眇めた。 「……別に。たいした事は言ってないよ?」 俺が苦笑しながら答えると、田口は自分から聞いた割には興味なさそうに頬杖をついた。 「ふ~ん。ま、アイツ揶揄うと面白いのはわかっけどさ、あんまイジメすぎんなよ?」 「ああ」 「お前らの仲だから、どうせおふざけが過ぎただけだろうけどさ、それでも傷付く時は傷付くんだからな」 「お前ホントいい奴だな」 田口は忠告を真面目に受け取らない俺の頭を、丸めた教科書でポコンと殴った。 「お前はホント、くそだな」 「へいへい、すみませんね」 「オイ、本当にちゃんと……」 その時、教室の前側のドアが開いて、廊下を見遣りながら不思議そうな顔をした先生が入って来た。 「伊藤はどうしたんだ?すごい勢いで走っていったけど……」 誰ともなく問い掛けた担任の一言で、皆の視線が一斉に俺に集まった。多少気まずい思いをしながらも俺は手を挙げた。 「先生、俺のせいっぽいんで、迎えに行ってきます」 おおらかと言えば聞こえがいいが、はっきり言って大雑把な性格の担任は、あからさまにホッとした顔をして笑った。 「おう、じゃ頼んだぞ」 アイツが行くならここしかない、と当たりを付けて廊下の突き当たりのトイレに入ると、案の定そこに健人はいた。 一つだけ鍵のかかった一番奥の個室から、健人が泣いている声が漏れていたのだ。 静かにそのドアに近付きコンコンとノックをすると、ピタッと泣き声が止んだ。 「けーんと!教室帰るぞ~」 俺は泣いているのに気付かないフリをしてわざと明るい声で呼びかけた。だが、息を殺したように中からは何の反応も無い。まるで自らの存在を消そうとしているかのようだった。 「おーい。健人、返事しろ~。そこにいるんだろ?迎えに来たよ」 「グスッ……や、やだ……っ、戻ら、ないっ」 ただ普通に連れ戻しに来たつもりだったが、必死に取り繕った健人の涙声を聞いてしまったら、また別の感情が疼きだした。 (どんな顔して泣いてるのか見たいな……) どうせ泣くなら俺の目の前で泣いて欲しい。あのキレイな顔が崩れるところが見たい。 さて、どうやってここから引っ張り出そうかと思案する。普段はフワフワとしている健人だが、一度言い出したら頑として聞かないことがある。俺は長期戦も視野に入れ、腕組みをして壁に寄り掛かると鍵のかかったドアを見据えた。 「……わかった。じゃあ俺、健人が出てくるまでずーっとココで待ってる」 「な、んでっ?!直澄は、早く戻れ、よ!」 「嫌だね。何時間でも待っててやるよ」 「授業、出ろっ、バカっ!」 「健人のお迎えに来たんだから、一人で戻るわけにいかないだろ?」 「な、なんだ……そっか……。じゃあずっと居れば?」 しゃくり上げながら抗議する健人の声は怒っているというよりふて腐れたような調子だった。まるで「どうせ先生に言われたから来たんでしょう」とでも言わんばかりに。 「言っとくけど、さっき教室で言った事は全部本心だから」 「えっ?」 「だから、健人のこと可愛いって思ってるって話。好きなんだよ、健人のこと。恋愛的な意味で」 一度下手なこだわりを取り除いてしまうと、素直な言葉が本当にスラスラ出て来るものだと、改めて自分でも驚いた。 突然素直になった俺の言葉を、それでもなお健人は何か企んでいるのだと勘違いしたらしく、中から聞こえてくる声が再び涙声になった。 「う~。またっ、そうやっ、てぇ……!う、嘘つい、てぇ」 「ハハッ。ホントホント」 日頃の己の態度からすれば疑われて当然、と俺が自嘲の意味を込めて笑った時、恐る恐るドアが開いた。俺はその瞬間を見逃さず素早く片足をドアの隙間にねじ込むと、腕を掴んで健人を無理矢理引っ張り出した。 (あ~これは予想以上に……可愛い……な) 涙で潤んだ健人の瞳と間近で視線が合った瞬間、俺は改めてそう思った。いつものユルっとした笑顔も可愛いが、これはまた格別かもしれない。俺の前で泣くまいと必死に堪えるその姿はまるで小動物のようで、かえって泣きじゃくらせたい衝動に駆られた。 (……って、それはダメだろ) ここが学校のトイレなことを思い出し、慌てて邪な感情を押さえつける。けれど俺は掴んだ腕を放すことも、ほんのり赤く染まった目許から目を逸らすことも出来なかった。 そうやって向かい合う形で立ったまま、俺達は互いにしばらく無言だった。 このまま健人が何か言い出すまで待ってみたい気もしたが、もうすぐHRが終わってしまう時間だったから俺の方から口を開いた。 「あーあ、思いっ切り目ぇ擦ったろ。赤くなってんぞ。キレイな顔が台なし」 言いながら優しく頬に触れると、健人がピクッと小さく震えた。柔らかな頬の感触を確かめるように目許をなぞると、俺より少し低い位置で健人の長い睫毛が揺れた。その反応や仕草一つ一つに俺は心臓が跳ねるのを感じた。 健人はしばらく逡巡するように視線をさまよわせていたが、意を決したように俺を真っ直ぐに見つめると、真顔で尋ねた。 「……本気?」 「何が?」 「だから……俺のこと……その、好きって……」 「うん。好きだよ?ずっと前から。気付いてなかったの?」 「……は?!ず、ずっと??」 健人は俺を驚愕の眼差しで見つめたまま絶句した。 「うん。出会ってすぐの頃から、ずっと。男同士だし、健人のクルクル変わる表情が見たくて素直に表してこなかったけど、好きだよ」 健人は急に素直になった俺を怪物でも見るような顔でじっと見つめて、本気とも冗談とも判断のつかない俺の本心を懸命に探ろうとした。俺が微笑んだまま優しく「大好きだよ、健人」と呼びかけると、ようやく伝わったのかジワジワと顔が赤く染まりその瞳に涙が溢れ出た。 「気付く……わけ、ないっ!いっつも、いっつも……冷たくあしらうくせ、にぃ……!!!」 健人は大粒の涙を零しながら、ポカポカと抗議の拳を俺にぶつけた。 俺はその抗議ごと抱きすくめて、真っ赤になった耳元に口を寄せた。 「ごめんね。でも俺は知ってたよ。健人が俺のこと好きだって……」 「っ……ばか……うぅっ」 「ごめんごめん。泣かせないようにしようと思ってたんだけどなぁ。結局泣かせちゃった」 俺は泣きじゃくる健人を胸で受け止めて、泣き止むまでその背中をさすってやった。 遠くに始業を告げるチャイムが聞こえた。 やがて泣き止んだ健人は、俺の背中に腕を回してギュッと抱き着きながら、「ほんと性格悪いよね、直澄って……」と呟いた。俺はそのチグハグな言動が愛しくて、頬が緩むのを抑えられなかった。 「でも好きなんだろ?」 「……はあぁ。もう!悔しいくらい好きだよ!」 本当に悔しそうに答える健人に思わず苦笑すると、俺は自分の胸に埋まっている小さな頭にチュッとキスを落とした。 「さて、そろそろ教室戻ろっか」 「……うん」 健人はそう返事をしながらも、名残惜しげに俺がキスした場所を手でさすっていた。それを見た途端に俺は我慢しきれなくなって、今度はその不満げに突き出された唇にキスをした。 誰もいない静まり返った廊下には、各教室から担任の声やら生徒が笑う声、「えー」というブーイングの声などが木霊していた。そんな中を、俺達は手を繋いで教室へと向かった。 「……ねえ」 「うん?」 不意に話し掛けられて、俺は止まらずに半歩後ろを歩く健人を振り返った。 目が合うと健人はニッコリと笑って、それから照れ臭そうに少し俯いて言った。 「眼鏡って意外と邪魔になんないね」 俺は一瞬何の事かと考えて、すぐにキスの話だと気付くと、前に向き直って健人の手を握る力を少しだけ強くした。 「……ああ、そうだな」 硝子越しの世界でも、そんなに悪くないかもしれない……。 握った手の平の温もりを感じながら、俺は初めてそう思った。 Fin (20090901作成→20210525リメイク)
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