ちょうだい

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ちょうだい

 真壁は中年のサラリーマンだ。  朝早くに起床し、準備を整え出社する。真壁は規則正しく、真面目で、勤勉な人間だった。  それ故に真壁は怠惰を許さない人間でもあった。  真壁には妻と、二人の息子がいる。  次男は真壁と同じく真面目で優秀だ。今年で十六になるが、進学校に入学しており、成績も良い。  だが長男は高校を中退し、引きこもりになっていた。  もう今年で十九になる。進学するか、就職するかしていなければならない年齢だと真壁は思う。  能力とは人それぞれ違うモノだと真壁は思う。だが、真面目さは皆同じように持たなければならないという考えを真壁は持っていた。  長男は高校二年の頃に引きこもりになった。  真壁は長男を強く叱った。妻から長男は苛められていると聞いたが、苛められる事と学校に行かない事は関係のないことだと真壁は思った。  正直甘えているとさえ思った。  社会に出れば苛められる事よりも遙かに過酷な事が待ち受けている。  真壁はそう長男に言い聞かせたが、より強固に閉じこもるだけであった。  それから二年の歳月が過ぎた。  未だに長男は引きこもったまま、真壁は変わらず仕事へ行く。  ある日の事だ、通勤している最中にボロボロの服を着た小汚い老人を見かけた。  ホームレスだ、と真壁は思った。  何処かの公園か河川敷の橋の下で寝泊まりしているのだろうといつかテレビで見たホームレスたちの光景を脳裏に思い浮かべて思った。  そして同時に長男の事も思い浮かべた。  このまま放っておいて、自分と妻が亡くなれば長男もこの老人と同じようなホームレスになるのだろうか。  考えていても仕方のない事だ。そうなるのはきちんと社会の中で生きていかなかったからであり、それは自分の責任ではない。  長男自身の怠惰と甘えの所為なのだ。  何度も長男を追い出してやろうと思った。何もしない穀潰しに居て貰っては困ると思っていた。  だが世間体もある。社会は人間に厳しいが、世間は弱い人間に優しい。  苛められた経験のある息子を追い出せば真壁は周囲から強い非難を受けるだろう。  そう云う事は分る。  だがその優しさは表面的なモノだ、実際には弱い者に手を差し伸べる人間なんてこの世に存在しない。  だから世の中にはこの老人の様な人物も存在しているのだと、真壁は考えた。  仕事を終え、帰路につく。  いつも通り給料にならない残業を熟し、いつもより遅めの電車に乗って、駅のホームを出る。  誰も乗っていない車両の窓に映っているのはくたびれた中年の姿だ。思わず笑ってしまう。  何かに怯え、何か義務感の様な物を背負い生きてきた。気がつけばこんな姿になっていた。  いつも通り電車から降りて、まだローンの残る自宅に直行する。  足取りは僅かにふらついている。歳かなとも思うがまだ何年もこの社会の中で戦わなければならない。  時折何かを忘れてしまっている気もするが、それを思い出す事は出来ない。  ふと、外灯に照らされている人影が目についた。  それは今朝見かけたホームレスだった。  幽鬼の如く立ち尽くしているその姿はただただ不気味であった。  道幅は広いため、ホームレスを避けて通る事は簡単なのに何故か躱すイメージが湧かない。  まるで大きな壁が目の前に立ちはだかっている様だ。 「なぁあんた」  そのホームレスの老人が真壁に声を掛ける。潰れた様にしゃがれた、雑音の様な声だった。 「ちょうだいよあんた。あんたのもってるものちょうだいよ。なぁ、なぁ、なぁ」  老人は、凄まじい異臭と共に真壁にがっしりとしがみついた。  汚い、気持ち悪い、鬱陶しい。 「何だお前は、離れろ」  これまでの人生で体験したことのない嫌悪感をこの男に抱いた真壁はホームレスの老人を思いっきり蹴飛ばした。  そのとき真壁の中で、今まで堆積してきた怒りが一気に噴火した。  烈火の如く怒れた真壁は日頃を鬱憤をぶつける様に何度も何度も老人を蹴り続けた。 「いてぇ、いてぇよ」  情けない鳴き声を上げる老人の声が更に真壁の神経を逆撫でする。  真壁が正気に戻った頃には革靴が血糊でべったりと汚れており、老人は痙攣するばかりで動かなくなっていた。  人を傷つけた事に対して真壁は何の後悔も抱かなかった。  ただしてやったという達成感だけが胸の内にあった。  去り際、瀕死の老人はそれでも先程と同じように。 「ちょうだいよ・・・・・・ちょうだいよ・・・・・・」  と呟いていた。  真壁はそれを気にも留めなかった。  自宅のドアの前に立つと家に明かりが付いていないという事に気がつく。  そういえば妻と次男は実家に帰省しているのだと思い出した。  仕方なく自分で鍵を開け、玄関に明かりを付けた。  無言で家の中に入るとどうも雰囲気が悪い。  いつもは家にいる妻と次男の姿がないからだろうか。  下駄箱の上には子供たちとの思い出の写真が飾られてある。  これを見ると様々な事を思い出す。  だが思い出や感傷がもたらすモノなどに何の価値もない。そんなモノは何の役にも立たない。  ただふと思い立って長男の部屋に足を運んでみようと思った。  最後に顔を見たのはいつだったか。同じ家に住んでいるというのにまるで遠くに居るような感覚を覚えた。  真壁は長男の部屋をノックした。これをせずにドアを開けると、長男が怒鳴り散らすのだ。  返事がない、いつもの事だ。  遠慮無しにドアを開ける。部屋が暗い、寝ているのかと思いスイッチを入れ明かりを付ける。  長男がぶら下がっていた。  全く、こんな事どこで覚えたのだろう。器用にロープを括って上手に首つり自殺出来てるじゃないか。  真壁は、実の息子が死んでいるのを見てそう思った。  耳元で、あの老人の声が囁いた様な気がした。 「貰っちまったよ。あんたの大事なモノをね。もう何もないよ、あんたからっぽだよ。からっぽだよ」  老人は真壁の耳元で、ずっと嗤っていた。 ※※※  坊主がお経を読む。隣で妻と次男が泣いている。父も母も、義母も義父も涙を流している。  真壁はなんとなく、長男が死んでよかったと思った。  自分を冷たい人間だとは思わなかった。もしもこのまま生きていれば長男の苦しみはずっと長く続いていた。  そして、きっとあの老人の様になっていたはずだ。  だから命を絶って、これ以上の苦しみを味わわずに済んだのだ。  生きる事は苦しい、何かを背負って生きる事は苦しい。その中に一切の喜びを感じる事も出来ないのなら長男は死んで正解だったのだ。  真壁は何も気づいていない。  真壁が失った大切な物は長男の命ではない。  あの物乞いの、ホームレスの老人に暴行を加えたときに真壁は完全にそれを失ってしまったのだ。   人としての心、その優しさを失っていたのだ。  老人に少しでも慈悲を見せていたならば、真壁はこの場で涙を流せていたはずだ。  長男の心に寄り添う事が出来たのならば、長男は自ら命を絶つことはなく、社会に復帰できる可能性を持てたのだ。  真壁は後悔しない。  その心を失った真壁は後悔する機会を永遠に失っている。  翌日になれば、きっと彼は何食わぬ顔で会社に行くだろう。そしていつも通りの日常を送るだろう。  忙しい日々の中で、人は何かを忘れてしまう。  真壁はその中で、人に対する優しさを忘れてしまっていたのだ。  ただ、それだけの話しだ。
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