0人が本棚に入れています
本棚に追加
今から三十分前のこと。
今朝から腹の具合はよろしくなかった。
本日は大事な採用面接の日。
早いとこ内定を貰い、長かった就職活動を終え楽になりたかった。
そんな焦りからくる極度の緊張感も、今となっては要因の一つであったのか。
目的地へ向かう地下鉄の車内で、突然襲いかかった激しい便意。
とめどなく寄せては返す便意の波を呼吸法や体勢変換で抵抗したが、どれもこれも焼き石に水。
我が下腹部は既に、警報級のアラームが鳴り響いていた。
万策も尽き果て、初めて乗った地下鉄路線で不安はあったものの、次の駅で降車を決意する。
大丈夫、多少の寄り道をしても。こんな事があろうかと時間に余裕を持って家を出たのだから。
決意をした時点で自らの身体は、便意を抑え込んでいた状態から解放モードへと局面が変わった。
皆さんもご経験がお有りかと思う。
もよおし始めは炎が燃え盛るが如く激しい、即ち動の便意。
一方解放モードとなれば、凍てつく氷で芯から縮み上がるような状態、言うなれば静の便意である。
どちらも辛いのに変わりはない。
動と静、炎と氷が織り成す便意のハーモニー。まさに人生模様の縮図と言っても過言ではないだろう。
そんな考えを巡らしたところで気を紛らわす効果は一切なし、次の停車駅へ辿り着くまでの切迫感は募るばかりである。
ふう、とひと息。
まだか。
冷や汗が流れたのか、背筋が凍てつく感覚に身震いする。
早くしてくれ。
脳の一部が白み始め、意識が遠のいていく。
お願いだ。早く着いてくれ。
やがて車両は滑り込むように駅のホームへ。
ああ着いた。よくぞ耐え抜いた。
扉が開き、あくまでも平静を装いつつ地下鉄を降車した。
ラッシュアワーを過ぎた時間帯とあってか、ホームは閑散としている。
よしよし。大丈夫、あとはトイレに飛び込むだけ。
ホームを見渡し目的の案内板を発見、それを見た。
何だと。
そんな。
無情にもトイレは、反対側のホームにあると矢印で示されていた。
これが現実か。
物事はそう上手く運ばない。それはわかっていた筈なのに。
いつだってそう。
一か八かの途中下車、それに賭けた浅はかな考え。
過ちを犯した代償は、あまりにも切ない結果を生んでしまった。
それにしたってこんな仕打ち、あんまりだ…
「はう。」
お前の悔恨の念なんてどうでもいいわと言われたが如く、下腹部から立ちのぼってきた悪寒が全身を走る。
さっさと動けと指令が掛かったかのようだった。
もはや下腹部の奴隷と化した俺。
身体に鞭を打って、矢印の方向に導かれながら下りの階段を降り始めるより他なかった。
一段また一段と、足を下ろす度に伝わる振動を最小限度に抑えつつ。
刺激してはならない。
下腹部の女王の機嫌を損ねてはならない。
逆鱗に触れれば、この始めて降り立った見知らぬ駅で、地中深くコンクリートに囲まれた空間で一人、目的を果たせぬまま冷酷無慈悲な結末を迎えるだけである。
下り階段を無事降り切り、反対側のホームへ向かう為の地下道を歩く。
誰も居らずひっそりとしている地下道。
この先の階段に辿り着き、昇り切ればそこで事は済む。
今の俺はハリガネムシに寄生されたカマキリと何ら変わらない。
食物連鎖の果てに、カマキリの体内を一時の住処として寄生するハリガネムシ。
ハリガネムシは、その本能に従って産卵を水中で行う必要がある。
その為、宿主であるカマキリを操って水場へ誘導するのだという。
最後はハリガネムシの意のままに、入水自殺するしかない哀れなカマキリ。
今まさしく、それと同じことが自分の身に起こっている。
俺は心も身体も全て、下腹部の女王に握られ操られているのだ。
女王様。
あなたの思うままに。
私の全てを委ねます。
そう考えれば少しは気が楽になった気がした。
いやそう考えることにした。
俺はカマキリ。鎌を引っ掛け一段昇る。もう一段、そらもう一段。
もうすぐですよ、女王様。水場はこの階段を昇り切った所に御座います。
ほれもう一段、さあさあ最後の一段を昇りますよっと。
耐えがたい苦痛と試練を乗り切るがために現実逃避に溺れた俺は、妄想の世界に入り浸って意味不明なことをぶつぶつと呟きながら、やっとこさトイレのあるホームへ昇り着いた。
だが。
ないぞ。
近くを見渡してもトイレはない。
そしてまた現実を直視した。
よりによってトイレはホームの端っこ…
「はうっ。」
まだか!まだなのか!
女王の叱責が飛んできた。
下腹部から脳髄にかけて、再び冷えた悪寒が貫いた。
ひええ。じょ、女王様、どうか、どうかお怒りをお鎮め下さいませ。
もう我慢ならんぞよ!
すぐに参りますゆえ、あと少し、もうそこに見えております。
股をぴったりくっつけて、小走りでホームの端っこへ急ぎ向かう。
走りづらいし変な動きだけどしゃあない。幸いにしてホームに人影はなかったとはいえ、
一生悪夢にうなされるであろうレベルの恥ずかしい姿である。
しかしそれも、前方にあるトイレへ辿り着けば終わること。
はあやっと着いた。
いざトイレ入室。
個室は全て満室だった。
くはあ〜。
左様で御座いましたか。
やはりやっぱりそうなのね。
そのようで、そう、そのとーり。
なるほどなるほーど。
こんな展開想定外。
悔恨の念など起こる気にもならんわい。
そうかいそーかい、気分爽快、なんつって…
「はうっっ。」
貴様〜やりおったなあ!
思考が壊れかけた俺に容赦無く襲い掛かる、女王様の怒号。
脳天を貫き、魂がスルッと抜けるんじゃないかと感じる程の衝撃。
もはや、これまでじゃ!
ああ、限界はもう間近。
ダメ元で個室を全てノックするも、一向に出てくる気配はない。
もう数秒すら待つ余裕もない。
さらばじゃ。
女王様の冷めざめとした声が聞こえた。
どうか、どうか御慈悲を…
最初のコメントを投稿しよう!