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「確かに傘は『差す』って言いますけど、まさか腰に差されるとは思ってもみなかったでしょうね」
私の右手にある畳まれたビニール傘を憐れむような目で見ながら彼はその気持ちを代弁した。
今日こそはいけると思ったのに、今回もまんまと赤信号に捕まってしまった。私は二度に渡る失敗の気まずさを紛らわすべく反論を試みる。
「いや案外傘も喜んでるんじゃないかな。刀みたいでカッコいいって」
「どこの世界にワンプッシュで開閉する刀があるんですか」
「これこそ現代の刀だね。ほら『返り血を防ぐ機能付き!』みたいな」
「返り血より小雨を防いでください」
容赦なくそう言いつつも、彼は今日も自分の傘を私に差してくれていた。
初めは驚きが勝っていて気にならなかったが、一度意識してしまうとこの距離感は少し緊張する。
あまりそのことばかりを意識しすぎてしまわないように私は口を開いた。
「君はどうして私に傘を差してくれるの?」
私が尋ねると彼は一度こちらを向いた。しかし私と目を合わせる前に、赤信号に視線を戻す。
それから少しの間、沈黙が流れた。雨の音が聞こえる。
「目の前でハンカチを落とした人がいたら、拾ってあげたいんです」
少しして彼はそう言った。
その台詞の意味がわからず、私は訊き返す代わりに首を傾げる。
「道に迷ってる人がいたら案内してあげたいし、電車で具合の悪い人がいたら席を譲ってあげたい。もしその人が倒れたら真っ先に駆け寄って救急車を呼んであげたい」
淡々と彼は続ける。
彼の横顔はいつも通り無表情で、しかしその声には確固たる意志が宿っていた。
「そんなの誰かがしてくれるだろう、ともいつも思うんですけどね」
彼の言葉が、雨音の隙間を縫って私の耳に届く。
「僕はその『誰か』になりたいんです」
答え終えた彼は口を閉じた。私たちの間に再び雨音が満ちる。
次は私が口を開く番だとわかっていてもうまく言葉が出てこない。
彼の答えはとても優しくて、完膚なきまでに素晴らしくて、少しがっかりした。
「あ、信号変わりましたよ」
彼の言葉に前を向けば、いつの間にか歩行者信号は青く光っている。進んでいい、と許される。
「止まない雨はないように、変わらない信号もないんでしょうね」
最後にそう言い残して彼は歩き出した。
私の頭上に雨が降り始める。先程まで忘れかけていた雨粒の冷たさを思い出した。
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