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『神はサイコロを振らない』
かのアインシュタインが量子力学論を批判するために発した言葉だ。かなり乱暴に要約すると、すべての現象は確率的に結果が決まるのではなく、ありとあらゆる物理的事象から結果が決まるということ。
もしも予測不能の結果になったとしたら、それは観測者が知り得なかった未知の変数が存在したからであって……なんて話は、今はいい。
こんな大昔にほんの少しかじった程度の知識が不意に頭によぎったのは、俺が今、最高潮に疲れているからだ。
ほんの数年前まで真夏と呼べた気温が、まだ梅雨明け前に観測できてしまう現象など、理由の一部に過ぎない。
疲労の一番の原因は、我が社の真っ黒な体制に因ると思う。
IT企業という響きに憧れ、クリエイティブでクールに働く姿を夢見て入社したものの、そんな夢はすぐに潰えた。
コンピュータで何でもできると思っていた俺は何も知らない愚か者だった。結局のところ、使いこなしているようでいてそれなしでは何も出来ない、コンピューターの奴隷と化しただけだった。
OS? プログラミング? システム構築? 何それ?
純粋な文系出身で、IT初心者でも適正次第でシステムエンジニアになれるという謳い文句にホイホイ乗せられてしまったのが運の尽きだ。
同期の新入社員は俺ともう一人だけ。そのもう一人も、いつの間にか姿を消していた。
1ヶ月ほどの研修だけで配属され、入社一年で既に午前様が日常化しているこの現状を、いったい誰に嘆けばいいのか。そもそも嘆くだけの体力がない。
ふと、ポケットの中で鳴ったスマホを開くと、母からのメッセージが届いていた。
『元気にしてる? たまには連絡してね』
毎度お馴染みの言葉だ。もはや返事も思いつかない。俺はそのまま、スマホをポケットにしまった。
とりあえず帰ろう。とにかく寝る。それしか体力回復の方法はない。
ふらつく足を奮い立たせて、俺は帰路を歩いた。20代前半の男とは思えないほどの情けない足取りだ。家まであと10メートルほどだと言うのに、亀のような歩みだ。
「ああ、早く家に帰りたい……」
これまた情けない声で呟いた。その時……そんな小さな声をかき消す乱暴な音が聞こえてきた。
(そういえば近所で危ない運転する奴がいたなぁ)
ぼんやり考えていたら、音はだんだん近づいてきた。やがてヘッドライトが昼間よりも明るく俺を照らした。眩しさに目を閉じると、轟音が至近距離で聞こえた。
「――え」
そんな声を出す余裕すらなかった。視界が反転し、夜空だけがいやにはっきり見えた。
それが、記憶に残る最後の光景だった。
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