私を見ていて

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 世界に恋をしたのかと思うほど、胸がドキドキとしていた。  理由が分からずに胸を押さえ、首を傾げて視線を巡らせる。そのドキドキの先にいたのが、彼だった。  爽やかな初夏の昼下がり。開いた窓から滑り込んだ風に誘われるように振り向くと、教室の後ろの席でこちらを見ている彼と目が合った。騒がしい昼休みの喧騒が、ふっと音を無くして、私の意識は彼に吸い寄せられる。何か言いたげな眼差しが、ほんのわずかに躊躇って、そっと視線が逸らされた。  豊原君とは、ほとんど話したことはなかった。朝や夕方、教室ですれ違う時に挨拶をする程度の間柄。高校生にしては少し小柄で、いつもはにかんだような笑顔を浮かべている彼を意識したことは、あまりなかった。  それなのに。今、視線が絡んだ瞬間、私の胸がどきりと大きく跳ね上がる。  いつからか、視線を感じていたのだ。授業中のふとした時や、休み時間に友達とおしゃべりしているその間、さらりと風が過るみたいに、微かな気配が私を振り返らせる。そして、私の胸は、理由も分からずドキドキと、ときめきを繰り返す。そうだ、世界に恋したみたいに。  でも、今、ようやく気付いた。視線の先には豊原君がいて、その少し困ったような顔を見た時、私の胸はドキドキの理由を告げてきた。この胸の高鳴りは、豊原君が私を見つめていたからだと思うとくすぐったくて、乱れてもいない髪を整えてしまう。  昨日までは、窓から見えるよく知りもしないサッカー部の先輩が好きだったはずなのに。あんな気持ちはまやかしだ。みんなが誰々先輩がカッコいいってそれぞれ推しの話をするから、私もそう言った方が話が盛り上がるし、私だけ好きな人がいないのもつまらない。そんな見栄で騒いでいただけ。でも、今度は違う。  ついに、私にも、春が来たのだ。  そう思うと、嬉しくて、妙にはしゃいで帰りに友達をスタバに誘った。 「また明日ね、豊原君」  擦れ違いざまに声を掛けると、彼が何か言いたげにこちらを見送っているのがわかる。私の胸がまた、どきん、と愛し気に鳴った。  ふとした瞬間に、胸が高鳴る。息が苦しい。そう思って顔を上げると、決まって彼がこちらを見て立ち止まっている。豊原君の日焼けした目元は、優しいと思う。また視線が合って、私はどぎまぎとしてしまう。意識し過ぎだと思っても、つい口元が緩んでしまう。 「恋かしら」 「もう、何言ってんの。惚れやすすぎ」  チカコが笑って私の肩を叩いた。 「早苗、今まで豊原君の話なんてしたことなかったじゃん」 「そうだけどさ。やっぱり見られてると思うとまんざらでもないっていうか」 「意識しちゃう?」 「そりゃそうでしょ。だって、いっつも見てるんだもん、私のこと」 「やだ、惚気」  チカコがきゃっきゃと可愛らしい声ではしゃぐので、聞こえたのではないかとつい、豊原君を探してしまう。教室の後ろで同じように集まっていた男子の輪の中で、ちょうど豊原君が振り返る。 「もう、息ぴったりなんだから」  チカコが肘で小突いてくるのを掌で叩きながら、それでも私の胸はドキドキと鼓動を高鳴らせていた。こんなの、意識しないでいる方が無理だ。つい唇を綻ばせた私の頬を、チカコがにやにやしながら摘まんだ。これが恋というものかしらなどと、思ったりしてしまう。 「ね、ね、デートに誘われたりした?」  チカコがもたれるように身を寄せて、私に囁く。 「誘われない、誘われない」 「んもう、じれったいなあ」  唇を尖らせるチカコは明らかに面白がっているが、私もちょっぴり不満ではある。豊原君からの熱視線は相変わらずだし、なんなら見られている感覚は日増しに強くなるのに、未だよそよそしいというか奥手というか、奥ゆかしいというか。 「もどかしいのよ、早苗から誘えば?」  スマホをいじりながら、チカコがちらりと私を見た。たぶん、スマホのあちら側には、チカコが押しに押しまくって落とした、チカコの推しがいるのだ。野球部の先輩で、そこそこのイケメン。 「私は今週末デートだよ」  スマホをくるりと私に向ける。チカコの彼氏のいつもの素っ気ない横顔からは想像できない可愛らしいスタンプが、私を煽ってきた。 「でも」 「なによ。まんざらでもないんでしょ。ていうか、ときめいてるならいいじゃない」 「そうだけどさ」  ドキドキとする胸を押さえて、私は豊原君を盗み見た。友達と笑い合う横顔にきゅんとする。 「ほら、もう、にやけてるぞ」  半眼にこちらを見返す友の顔は、どこか呆れたように微笑んでいた。 「早苗が言えないなら、私が聞いてきてあげようか」 「止めてよ、自分で言うからいいよ」 「言ったね」 「……がんばります」 「約束だぞ」  自分が彼氏できたからって、ちょっと上から目線じゃないの、と苦々しく思うけど、確かに向こうからのアプローチを待っていたら、進まないかもしれない。そんなことを考えている私の耳元で、誰かが笑った。 「え?」 「どした」 「今、チカコ、笑った?」 「何言ってんの」  私はきょろきょろと首を巡らす。通り過ぎていった3人組の一人が、ちらりと私を振り向いた。豊原君と仲がいい下山さんだ。どきん、と私の胸が、微かに鳴った。  火曜日、ロッカーの中が少し荒れていた。木曜日、階段で、誰かが私を後ろから軽く押した。金曜日、スマホに知らない番号から着信があった。  ドキドキと、私の胸が、揺れ動く。  土日は何事もなくて、月曜日。  日差しの眩しい朝の校門で、豊原君が私の隣に並んだ。 「おはよう」 「お、おはよ」  豊原君が、私の顔を覗き込む。意外と睫毛が長くて、どきりとする。 「どうして見るの」 「君のことが気になるから」  直球の答えが真面目な眼差しと共に返されて、私は思わず立ち止まる。  豊原君が訝し気に歩みを緩めて、じっと私を見つめた。朝の陽ざしに目を細めた豊原君に、胸がきゅんと締め付けられる。これはいよいよ、恋かもしれない。 「あの、豊原君」 「何」 「あのね……」  言おうとしていた言葉が、喉で詰まって出てこない。唇を舐めたり、指先をもじもじとさせている私をじっと見つめる視線が熱い。  意を決して顔を上げたのに、豊原君の視線が反れていく。あの子が豊原君を呼んでいる。軽やかに駆け寄って、隣に並ぶ。おはようという可愛らしい声が、私の胸を、ずくん、と鳴らした。 「まただ」 「どうしたの」 「変なの」  これ、見て、と私はチカコの袖を引っ張った。私の机の上に、べったりと、手の痕が付いている。 「なにこれ、気持ち悪い」 「この間はロッカーだった」  ボディシートを鞄から引っ張り出して、ごしごしと机を擦る。机はすぐに綺麗になったけど、まだ何かが付いてるみたいで、私は執拗に擦り続けた。 「知らない番号の着信も、段々増えてくるし」 「え、怖くない」 「怖いよ」  誰だか判ってるんだけど、と私は華奢な背中を睨みつける。豊原君に調理実習で作ったお菓子をあげているのは、あの子だ。 「嫉妬、ってこと」 「そうじゃないの。豊原君が私のことばっかり見てるからでしょ」  苛立たし気に答えて、ゴミ箱に汚れたボディシートを放り込む。ちらりと、豊原君が私を見るのがわかったが、なんだか苛々するので無視をした。勝手にいちゃついたらいいのよ。心の中で吐き捨てる。ドキドキと胸を叩く不自然な鼓動は、今日は息苦しいばかりだ。  手を洗おうと廊下に出て、水道を捻ったところで、背中に気配を感じた。  誰かは無言で私の背後に立っている。何か言いたげな雰囲気が伝わってくるが知ったことか。わざとバシャバシャと水を散らして、こちらの不機嫌を表明すると、気配はそっと遠ざかっていった。少し反省すればいいのよ。両手を洗い終わると、奇妙にさっぱりとした虚しさが、胸に穴をあけていた。  心が乱れていたせいか、集中力に掛けていた。塾で問題を解くのに手間取ってしまい、帰りがすっかり遅くなった。いつもより30分帰りが遅れただけなのに、いつもと違って、帰り道が酷く寂しい。街灯は点いているが、逆にそれが白々しさを浮き彫りにして、暗闇が目立った。  真夜中にはまだ遠いのに、静かすぎる道が怖い。知らず知らずに早足になり、私は無駄に背後を気にしながら、家路を急ぐ。  曲がり角を曲がって、びくりと身がすくんだ。暗がりの向こうに、誰かがじっと立っている。逃げ出そうとした私を呼んだのは、豊原君だ。 「……どうしたの、こんなところで」 「君を待ってたんだ」 「どうして」 「だって、君のことが気になるから」  ざりっと、靴音がした。 「こんな遅くに? 明日学校ででもよかったんじゃない?」 「学校じゃあ、駄目なんだ」  ざ、と豊原君が暗闇から踏み出す。真っ直ぐに私を見つめる眼差しが、明かりを撥ねてぎらりと光った。咄嗟に、私は後退る。早鐘のようにドキドキと心臓が鳴って、胸が苦しい。 「机の上の手形に気づいた?」 「え」 「ロッカーにも、ついてただろう」  どうして、豊原君がそれを知っているんだろう。あれはあの子の嫌がらせじゃないのか。そうじゃないなら、あの犯人は。 「待って、逃げないで」  伸ばされた手を振り切って、私は走り出す。家を知られたらどうしよう。いや、同級生なのだから、知っているだろう。でも、私は、豊原君の家を知らない。  混乱した頭はどうでもいいことを考え始めて、私はなるべく家から離れようと暗い道に逃げ込んだ。見つからずに、息をひそめてやり過ごせばいい。  足音が、目の前の道を駆け抜けていく。  私はじっと息を殺す。胸が、うるさいくらいに、ドキドキと鳴っている。  震える呼吸を宥めて耳を澄ます。足音は聞こえない。唇から、安堵の息が震えながら零れる。脚はがくがくと頼りなく力が抜けそうだが、今のうちに家に帰ろう。  歩き出そうとした私の背後から、ざり、っと足音がして、私は目を回しそうになる。  振り返りたいのに、振り返れない。心臓が口から飛び出しそうなくらい、揺れている。息が吸えずに、喉元が小刻みに痙攣した。当然、叫び声など出せそうになかった。恋じゃなかったのか、あの視線の理由は。  泣きそうになりながら、私は必死で足を前に出そうとする。じっと、私を見ている。後ろから、じりじりと近づいてくる。 「やめて」  恐怖に耐えかねて、掠れた声を上げながら、豊原君を振り返った。だが、そこにあるのは、暗闇だけ。  誰もいない路地の上を、足音だけが、近づいてくる。ざり、ざり、ざり。  違う、彼じゃない。豊原君じゃない。見えない誰かが、見えない何かが、近づいてくる。  そうだ、この視線。誰かの視線。ずっと感じていた、視線。それが私をじいっと、まっすぐに見据えている。睨まれた私は、動けずに、立ち尽くす。  ああ、胸がドキドキとしていたのは、恋だからではない。私はようやく思い知った。世界に恋をしてたのでも、豊原君が見つめていたからでもない。これは、恐怖だ。得体の知れない恐怖に、私の身体が上げていた悲鳴。  もう、その心音はめったやたらに連打されて私の身体を殴り付け、目の前はピントを結ばない。逃げたいのに、身体は竦み、叫びたいのに、声が出ない。  何もない暗闇から、足音と共に呼吸が近づき、何かが耳に滑り込んだ。臭気なのか声なのかわからないが、意識したらきっと気を失う。もう、すぐ真後ろに気配が迫り、視線は首筋にじっとりと貼りついてなお、私に突き刺さる。  引き攣るような呼吸が限界を迎えて、涙が零れだしたとき、ようやく貼りついていた喉が震えて、叫び声が迸る。 その直前、走り出た影が私の肩を叩き、叩かれた勢いのまま、私は腰が抜けて地べたに崩れ落ちた。  しん、と空気が凍り付く。  もう、臭いも気配もない。 「どうして」  見上げた視線の先には、豊原君が立っていた。 「君のことが気になって……君の後ろに憑いている影が」  豊原君が私の肩から手を離す。その掌は、べったりと黒い何かで汚れていた。 「もう大丈夫だよ。お家の人に迎えに来てもらいなよ」  初めて見る優しい笑顔で、豊原君はそう言った。  世界に恋をしたみたいに、胸がドキドキとする。  豊原君に助けてもらったあの日から、私の胸は、ドキドキと高鳴ったままだ。  それなのに。  豊原君はもう、私を見てはくれない。私がじっと見つめていることに気づいたら、彼はドキドキしてくれるだろうか。世界に恋をしたみたいに。  もし、豊原君がもう私を見てくれないのなら、またあれを、呼べばいいのだ。あれがいれば豊原君は私を見てくれる。そうして、私の胸は高鳴るのだ。世界に恋をしたみたいに。  じっと見つめていたら、彼が振り向いた。二人の視線が絡んで、私はにっこりと嗤った。
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