硝子は夜に沈む

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 振り返れば二人の影が階段に伸びていた。角張ったそれはどこか奇妙で気味が悪い。  暗然たる辺りに人気はなかった。夏とはいえもう夜の九時を過ぎている。電灯も自信なさげに灯っていた。ジ、ジ、ジと不気味な音を発すばかりだ。耳を欹てれば、それは蛾が当たっては落ちゆく音だとわかった。ぽっかりと穴が開いたように当たる灯の下に、何匹もの残骸が転がっていた。その中の一匹がちいさく羽を動かしている。だがその場で回転するだけで、ややあって力尽きた。 「行こうよ」  彼女の声に僕は頷いた。  先を進めば小高い丘がある。人々はこの急勾配の坂をあまり上りたがらない。しかし僕は好んで足を運んでいた。そこから見える景色が好きだった。これといって絶景というわけではない。観光名所になっているわけでもない。この街を少しばかり見下ろせる、というだけのこと。  そう。たったのそれだけ。  彼女と交際してから幾度となく二人で上っては眺めた。今までの経験を思い起こすことが出来るから。甘くも苦い大学生活を。  ヒビの入った階段を少しずつ上る。掠れた靴音が聞こえる。それにつれて、僕らの影が形を変える。  上りきると、次第に横手に公園が現れた。手摺から乗り出して一望出来る、少しちいさな公園。僕たち二人以外には誰もいなかった。時間が時間だから当然かもしれない。公園の隅に立つ照明が、出ていない月の代わりに地面を白く濡らしていた。こちらに蛾はいなかった。  彼女は僕の隣から離れた。前に出たかと思えば、ふっと回転するように振り向く。後ろ手にして僕を見る。 「ねえ」と、彼女は不敵な笑みを浮かべていた。「来て」  数歩後ろ歩きした後、彼女はすっと前を向いた。手摺のあるところへ。言われるがままに着いて行く。  白い手摺はところどころ塗装が剥げていた。僕はその境界線を意味もなく撫でる。街の呼吸を感じながら。どこか遠くで救急車のサイレンが聞こえていた。きっと誰かが苦しんでいるのだろう。そしてどこか遠くで、パトカーのサイレンも聞こえていた。きっと誰かが罪を犯したのだろう。  轟々と唸る風が、僕らを飲み込むように吹く。髪がなびく。 「つき合ってから、もう四年ね」  髪を抑えながら、彼女が言った。 「そうだね」 「いずれ、就職するわね」 「ああ」 「そうなると、会うことも少なくなる」 「かもしれない」 「ねえ」  そこで彼女は一拍置いた。そして、 「――結婚しましょう」  隣に立つ彼女はじいっとこちらを見ている。僕はただ黙って下を眺めていた。ここから落ちたら死ぬだろうか、なんて益体もないことを考えながら。  確かに、結婚については考えたこともある。もう数年すれば結婚してもおかしくない歳になる。しかし――僕には少し、わからない。  彼女のことが。 「あるいは」  と、彼女は視線を外す。僕と同じように、街を見た。 「一緒に、死にましょう」  夜風が僕の肌に触れる。首筋が一瞬、冷やりとした。まるでナイフか何かを押し当てられたかのような感覚。僕の心臓が、高鳴った。  ――そう、こういったところが僕にはわからない。  僕は彼女に対して、首をゆるく横に振った。それから静かにその場を離れることにした。気がつけば冷や汗をかいていた。服で拭う。そして、傍にあるベンチにおもむろに腰を下ろした。  彼女は未だ微笑していたようだった。それもそうだろう、心中に対して僕はかぶりを振った。つまり結婚に対しては良いと匂わせた。嬉しくない筈がない。  ややあってから彼女はブランコに座った。少し揺れたと思う間もなく、ギイッ――と軋んだ。懐かしい。幼い頃から親しんで来たものだ。しかし見た目もそうだが、その音からして今にも壊れてしまいそうだった。鎖も板も脆そうだ。そして座っている彼女も硝子のように脆い。  彼女は地を蹴って、揺らす。何度か軋み、反動をつけて身体が前後に揺れ動く。  その時彼女は気のせいか、寂しそうな顔をしていた。 「わたしは――」  彼女は、虚空に向けて独り言ちた。 「わたしは、何をやっているのかしら」  僕は何も答えなかった。いや、答えられなかった。  ブランコが揺れる。振り子が戻るように反動をつけて。遊具の単調な音だけがこの夜に響く。  僕は立ち上がった。そしてそのまま手摺に向かった。触れば少し冷たかった。しかしそれでも強く握り、夜景に目を向けた。  ここは僕の街だ。そして彼女の街。互いの住む土地が遠くに見渡せる。点々と見える住宅の明かり。その中のひとつが僕の家であり彼女の家だ。でも、そのどこにも僕らはいない。いるのはここの暗夜の中。  やがて、鎖の上げる悲鳴が止まった。振り返ると彼女は漕いでいたブランコを止めていたようだった。 「どうかしたの」 「……ううん」微かに首を振る。「なんでもないわ」  傍に歩み寄る。彼女は鎖を両手で掴んでいた。こちらを見ようともせず俯いている。ジ、ジ、ジ――と、どこからか来た蛾が電灯にぶつかっていた。光が不連続的に消えては灯る。薄暗く照らされていた彼女の頬が、闇に溶けては浮上する。  ほどなくして僕は立ち止まった。 「見せてごらん」  僕はしゃがみ、鎖を掴んでいる手を解いてあげた。錆びがこびりついて血のように赤い。いや、よく見れば強く握り過ぎて血も滲んでいる。触ると、彼女は反射的に手を引っ込めた。身体が小刻みに震えているようだった。寒いのか恐れているのか。どちらかはわからない。 「帰ろう」  錆びだらけの彼女の手を握り、立ち上がらせる。  僕たちは何事もなかったかのように公園を出た。二人して階段を降りてゆく。カツン――と靴音が鳴る。蛾が舞う。夜風が互いの間を切る。  辺りはほとんど闇に近かった。外灯の調子が悪いのか、来た時よりもどうも光が弱い。その頃には二人の影もあまり見えなくなっていた。切れ切れになっていた筈の影も、もう見えない。  でも、別に良い。今となってはそう思える。  心持ち強く彼女の手を握る。一瞬反応があって、すぐに握り返して来た。  階段を降りる。坂を下る。あの、手摺からせり出して見た夜景へと帰ってゆく。  僕らはただ沈もう。この夜の中へ。 ――了――
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