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この子と話したい。話を聞きたい。説明したいことも山ほどあるが、とにかく今は時間がない。
私は子どもをそっと抱えるも、その思いがけない軽さにギョッとした。
――この子はちゃんと食事を与えられていたのだろうか?
体重が軽すぎることへの不安と親への疑念はあるが、今は飲み込む。
この部屋の主が帰ってくる前に、やらねばならないことがあるのだ。
室内に侵入し、辺りを探る。部屋は雑然として、そこかしこに段ボールが積まれていた。
荷物の内容に興味はないが、開きっ放しの箱の中に梱包されていないコップや皿が見えて、思わず眉を顰める。
目に付く物を片っ端から手当たり次第に詰め込んだのだろう。まるで夜逃げの準備でもしているような悍ましい有り様だ。
私は人の気配がないか用心しつつ、子どものものと思しき品を手早くまとめていく。回収できた荷物は驚くほど少なく、荷造りはあっという間に済んだ。
窓の外に見える太陽は、来た時と比べてさほど変わらない。
僅かに傾いだだけの西日は、熱も紫外線の刺激も幼子には厳しそうだ。子どもには自分の被ってきた帽子を被せ、逡巡の後、羽織っていた薄手のニットを着せた。少し暑いかもしれないが、白い柔肌が赤く焼けるよりはましだろう。
「お待たせ。さあ、お母さんと本当のおうちに帰りましょうね」
私はまだ年端もいかない"夫の隠し子"を背におい、女の部屋を出る。
ここを訪ねた理由の一つである手切れ金の入った分厚い封筒を忘れぬよう玄関脇のポストにねじ込んでから、炎天下の外へと足を踏み出した。
夏の日差しで焼かれたアスファルトは酷く熱く、その上を全力で走るものだから体も瞬く間に火照り、汗だくだ。
背中の子は大丈夫だろうか。途中で水を飲ませよう。
こんなになって走るのは久し振りで、すぐに息が上がって苦しくなる。
自宅への道中、あの女か夫に見つかってしまわないだろうか。
荷物を抱え、子どもをおぶって疾走する女なんて尋常ではないと、道行く人に不審に思われやしないか。警察にでも通報されたら、一巻の終わりだ。
(怖い。無事にこの子と帰り着きますように)
不安で堪らないのに、それでも私の心は浮き足立っていた。
背に負う子どもの重みは、私がずっと望んでいたものだったから。
――嗚呼! やっと! やっと私の子に会えた!
迎えに来るのが遅れてしまって、本当にごめんなさい。
ああ、ああ、出会ってくれて……生きていてくれて、本当にありがとう。
頬を伝う水は、汗と涙のどちらだろう?
わからないし、どちらも私の大事なこの子の為に流れていることは変わらない。
疾走の苦しさとこの身を冒す灼熱を持て余しながらも、私は今、自分が母親であることを強く実感していた。
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