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いざ鎌倉、じゃなくてマレーシア
彩香は二十年の重さを考えてみる。自分はまだ子どもだった。それがいまや、ふたりの母である。
そんな長い期間、ゆるされない関係を続けるのはどんな思いだったのだろう。「不倫」というひとことでは片づけられないのかもしれないな。彩香の心にはまた違った思いが芽生えていた。
「あ、そうそう。あしたね、わたしデートなの」
「はあっ?」
「アレンジメントを納品しているホテルの支配人とね」
あの老舗ホテルのですか。それはまた、ダンディそうな。
「通っているうちにちょっと仲よくなってね。ディナーに誘われちゃった」
うふっと、母が小首をかしげた。
うふって。
楽しいのならいいけれど。
「あちらもバツイチだから安心してね」
そうですか。もはや口をきく気も失せてしまった。
ピーポーン、チャイムが鳴った。
「あっ、生徒さん来ちゃった」
彩香は、あわててすっかり冷めてしまったハンバーグを口にはこんだ。母にわだかまりがないのなら、それでいい。かな?
「よくわからなくなっちゃった」
その晩、ふろ上がりの真司に彩香はいった。
「おとうさんと不倫相手が百パーセントの悪者じゃなかったのかな。ずっとおかあさんが被害者だと思っていたんだけど」
真司はバスタオルでわしわしと頭を拭いていた。
「うん。だれも相手がどんな人なのか知らないんだよね。どんな事情で関係を続けていたのかもわからないんだろう?」
「うん。優香には様子をみて来いっていわれちゃったし、おかあさんは行ってくればってあっさりいうし」
彩香はため息をつく。
「お母さんのいい分はわかったよね。おとうさんのいい分も聞いてみたら?」
「うーん。知りたいような。知りたくないような」
「ずっともやもやしてるじゃないか。解決するいい機会だと思うよ」
そうはいっても彩香はなかなか素直にうんとはいえなかった。
けっきょく日々に忙殺されながら折に触れては、うーんとうなっている。子どもたちもたまに思い出したように、おじいちゃんは? と聞いてくる。飛行機の空きを探しているからね、とごまかしている。
一週間ほどたった晩、優香から電話が来た。
「まだ迷っているの?」
なぜ半笑いで聞くのだ。
「よくいえば慎重だけど、悪くいえば優柔不断よね」
うるさいな。そういう優香は思いきりがいい。長女だから、次女だから、とはいいたくないが。
「たぶん、一か月たってもおねえちゃんは迷ってるわよね」
失敬だな。
「行ってきなさいよ。行け」
命令か。
「おにいさん、いる?」
ええ? と彩香が渋るのを優香は無理やり真司と電話をかわる。真司は、うんうんとうなづきながら話を聞いて、わかったと電話を切った。
「彩香にまかせていると、いつまでも決断できないから、チケット取っちゃえってさ」
真司は笑いながらそういった。
「俺も、それがいいと思うよ。もう決まり!」
彩香が反論する間もなく、おじいちゃんのところに行くぞー、と子どもたちに宣言してしまった。
「わーい! わーい!」
と、無邪気にはしゃぐ子どもたちをみると、まあ、いいかと思ってしまう。完全アウェーの敵地に乗り込むような気持ちだけれど、数でいったら四対二。しかも孫は戦力倍増。多勢に無勢。よほどのトラップがなければ勝てるだろう。
むんっと肩に力が入る。
「そんなに力むなよ」
真司が苦笑する。
格安航空のチケットは真司がネットで取ってくれた。八月のはじめ、クアラルンプールに二泊の予定。真司も夏期休暇を合わせてくれた。彩香もいまならシフトの希望を出せる。
ただの旅行ならば、もうすこし余裕を持って観光するところだが、行先が行先である。間が持たなかったらどうしよう、父はともかく、新しい奥さんが歓迎ムードじゃなかったらどうしようなどと思い、早めに切り上げることにした。
案の定、父からはもっとゆっくりすればいいのに、といわれてしまったけれど。空港までは父が車で送り迎えをしてくれて、どこか観光地にもつれて行ってくれるらしい。航空券も買ってあげるといわれたけれど、さすがにそこまで世話になる気はない。真司だって見栄はある。丁重にお断りした。
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