File.1 八束隧道、及び旧巖倉博物館

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 八束隧道のかなり手前でハザードランプをつけて車を停めると、古瀬さんは入口付近で頭を抱えている若宮に近付いた。  ラフなティーシャツにジャージ、それから裸足。家で寛いでいたことが伺える格好だ。いや黒いのの怪奇現象に悩まされていた彼だから、寛いでいたというのは少し違うのかもしれないけど。  両腕で頭を守るようにして道路上に蹲る若宮が何かつぶやいている。  俺たちがここにいることさえ解っていないようだった。  ──ごめんなさい。  ──ゆるしてください。  ──おれがわるかった。  しばらく若宮がぶつぶつと洩らす言葉を聞いていた古瀬さんだったが、小さく息をついて懐からスマホを取り出す。どこかへ電話をかけているようだった。 「もしもし大和さん。非番だった?……ああ、それはごめん。轢き逃げを自白している男がいるんだけど、今から来られるかな」  その横顔を見ていた視界の端に、何かが動いた。  あ、と思って顔を動かす。こういう視え方をする場合、改めて視ようとするといなくなるのが普通だが、彼女はちゃんとそこにいてくれた。  八束隧道前、外側のカーブに沿った真新しいガードレールの前。  ちょうどトンネルから零れた橙色の明かりが地面を照らす辺りに、ひとりの女が立っていた。  頭部から流れる血がぽたぽたと足元に血だまりをつくる。可愛らしい感じのワンピースは血塗れで、ところどころ汚れたり破れたりしていたし、右脚は脛の辺りから折れて変なほうを向いていた。左足にはお洒落なピンヒールを履いているが折れた方の右足は裸足だ。  目を逸らしたくなるほど痛々しい姿だったけど、俺はその女を知っていた。  正確には、知らずにそばにいたのだった。  思わず駆け寄っていた。  人ならざるものに対する恐怖よりも、そのときは、胸に滲みる切なさのほうが上回った。  手を伸ばせば触れられるかもしれない距離まで近寄っても、彼女にかける言葉が見つからない。オオサンショウウオとか言ってごめんとか、人間だなんて、まして女性だなんて思いもしなかったとか、謝るべきことがいくつもある気がした。古瀬さんの言っていたように、少々ペット感覚だったかもしれない。彼女はずっと……自分を殺した男を、捜していたのに。  彼女は無言で、そして無表情のままだった。  やにわに右手を上げ、震える指先を、ガードレールの向こうに広がる真っ暗闇の下方へと向ける。  何も見えない、ただ闇だけが口を開けて待ち構える山林の底へ。 「そこに……いるのか、ひとりで」  どれほど痛かっただろう、恐ろしかっただろう、せめて彼女の最期に痛みや苦しみが少なかったなら、まだしもいいのだけれど。  誰だって痛いのはいやだ。辛い思いなんてしたくないし、できるだけ人に苦しい思いをしてほしくない。なんだか心臓が痛かった。目が熱い。泣きそうだ、俺自身にはなんの痛みもないのに。  何もできなくてごめんと、そう言おうとして視線を戻したとき、すでに彼女はいなかった。  ただ血痕だけがそこにあり、やがてそれも、地面に染み入るようにして消えた。 「ごめんなさい……ゆるしてください……しにたくない……」  若宮のか細い声が繰り返す。  一体誰が許してくれるというのか。 「しにたくない。しにたくない……」 「しにたくない」口が勝手に動いた。  俺の意思ではないその言葉を聞いた巽が眉を寄せる。けれどもう俺の意識は八束隧道にも若宮にも向いていなかった。ただ崖下から見上げる夜空が、じわじわと歩み寄る死の気配が、体と心を支配していた。死にたくない。  死にたくない、  ──死にたくないなぁ。  夜空にぽかりと浮かぶまぁるい満月を睨みながら、なんでこんなことになったんだっけ、と考えていた。  頭とか、肩とか、右脚とか、最初の頃は色々なところが痛かったんだけどもう何も感じない。ただ、ひどく喉が渇いていた。  お茶が飲みたいな。お母さんが沸かしてくれた麦茶がいい。  特別でも高級でもなんでもない、市販の麦茶パックだ。お気に入りの琉球ガラスのグラスに注いで、実家の冷凍庫でつくる四角い氷を三つ入れるの。いかにも庶民的じゃあないか。  死ぬんだろうな、あたし。  だって助かる理由がないもの。  デートの締めにやってきた八束山の展望台で、星を見て夜景を見て、それでケンカになった。彼氏は怒って一人で車に乗って帰っちゃった。あんの莫迦野郎。ふざけんじゃないわよ。デート用のヒールでハイキングコースを歩いて帰るのは無理だから、スマホで足元を照らしながら車道を帰ることにした。八束トンネルは心霊スポットだけど、今も現役のただの山道だから。他に道がないんだからしょうがない。それに、車道を歩いていれば、頭を冷やして冷静になった彼氏が車で待っていてくれるかもしれないし。  そしたら八束トンネルのすぐ傍で車に撥ねられた。  あたしを轢いたことに気付かなかった車はあたしをしばらく引き摺った。痛かった。痛いやめて轢いてる止まってって叫んだ。ようやく停まった車から男が出てきた。大学生くらいの若い男だ。救急車呼んで、って辛うじて喋ったと思うけど、男はあたしの足を掴んで道路を引き摺り、崖に面した道路の際まで運んだのだ。ちょっと、痛い、なにすんのよ。 「なあ、おい、なんか轢いたんか?」 「うるせえ、黙ってろ。早く逃げねぇと、あいつらが、あいつらが来る!」  ガードレールの隙間から蹴り落とされた。あたしは山肌を転げ落ちた。  激痛で気を失って、目を覚ましたら日が昇っていた。体は動かないし、手の届く範囲にスマホもない。スマホがあったとして電波が入るのかどうかも謎だけど。  何度か意識を失っては起きてを繰り返し、二回、夜を迎えた。  次の夜はもう来ないだろう。  あたしは多分死ぬ。  お父さん。お母さん。花嫁姿も孫の顔も見せずに先立つ親不孝を許してください。ごめんね。ごめんね。妹よ、あんたは二次元に彼氏がいるっていうから無理に男作って結婚しろとは別に言わないけど、お父さんとお母さんよりは長生きしなさい。  もしあの夜に時間が戻せるなら、彼氏の知ったかぶりくらい笑って流して、一緒に車で帰るのに。本当に、本当につまんないケンカだった。彼氏は一生恨む。人を深夜の山に置き去りにするなバカ。罪悪感で死んじゃえ、バカ。  それからあいつらは許さない。  死んでも許さない。絶対に。顔も知らないけど。  ──絶対に捜し出して、呪い殺してやる。
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