閉じた世界と鍵の物語

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 後年、彼女はその夜に自分が湖へ向かった理由を、こう語った。  風が呼んでいたのだ、と。  夜の闇の中を、風と月光に導かれるままにシェイはひたすら走っていた。  木々は少女を追い立てるようにざわめき、その背を見送った。踏みつけられた花々は抗議の声を彼女の風に掻き消され、虚しく地面を向いていた。  シェイは止まらない。  仄かな月明かりが風に弄ばれる銀の髪を照らしていた。その髪に、その額に伝う汗を、シェイは拭おうともしない。 木々が少しずつまばらになっていく。風はいっそう強く、彼女の背を押した。一向に重くならない足を心の片隅で不思議に思いながらも、シェイはぼんやりした頭のまま走り続けた。  その足が止まったのは、荒れ狂う湖の前だった。  湖面がいくつもの波紋を作り、その周囲を風が守っている。波の向きと風の向きは全く異なっていたが、シェイは気付かなかった。  彼女は湖の中央に立っている光に、目を奪われていたのだ。  毎夜のように母が語る一族の物語の始まり、古の神の降臨を見ているようだ、と少女は思った。  ――風と水が光を呼び込み、闇の中に御柱を立てる。炎と地が御柱を守り、神は我らキツネをその他の多くのものと共に生み出した―― 「神様は、またここへ御出になったの?」  シェイの呟きは、荒れ狂う風の音に掻き消された。銀の髪は風に右へ左へと翻弄され、落ち着くことができない。だが、少女は髪を押さえることもせず、光を見上げていた。  どれほどの時が経ったのか、シェイには分からない。  急に、光の柱が大きくうねった。柱となっていた光は球へと形を変え、風に包まれて湖のほとりへと降りた。  徐々に光は小さくなり、闇が再び静けさを取り戻そうとしていた。その光が消えかかりそうになった時、慌ててシェイは湖畔へ走った。  光の中に神がいるに違いない、と彼女はその時に思っていた。  だが、消えゆく光の中で倒れていたのは、神ではなく彼女と同じ銀髪の少年だった。  シェイは落胆した。神はキツネを愛したが、キツネは神と同じ姿ではないという話を、彼女は先日聞いたばかりだった。  神ではなかったが、同じキツネの一人ならばと、シェイは気を取り直して少年の元へ向かった。  シェイが辿り着いた頃には、光はもう少年を僅かに包むばかりだった。仄かなその光を受けて輝く少年の衣服は、重く濡れて滴がしたたり落ちている。 「キツネ……キツネの子、私が分かる?」  軽くはたいた頬の冷たさに、シェイはひどく驚いた。未だキツネの死を見たことがない彼女だが、命の消えた獣が温もりを失うことは知っていた。諦めずに頬を叩きながら幾度か呼びかけたが、キツネの少年は動かない。  連れてゆかなければと思い、シェイは少年を抱え上げた。意識のない腕を己の細い肩に回し、冷え切った少年の体に熱を分ける。少年の口から、かすかに吐息の音が聞こえた。それだけがこの少年の生存を証明していた。  ゆっくりと、シェイは歩き出した。 「お前は、私と同じ風の者? それとも、地の者?」  少年の唇は、少女の問い掛けに答えなかった。  シェイは少年の重い体を引きずるようにして、森へ入った。しかし、少女の体力はすぐに消耗する。木の根に足を取られ、枝葉に頬を切られ、足取りは更に重くなった。  風は、もう彼女を導かない。  もう一度、風を呼び戻すことはできる。しかし、母の戒めがそれを許さなかった。  曰く、風をみだりに呼び出せば己の命を削っていく。決して非常の時のほかに風を呼んではならない、と。  重い体は休めばまた軽くなる。しかし、削られた命は戻ってこない。そう己に言い聞かせながら、シェイは歩き続けた。  淡い月明かりだけが彼女の帰路を照らしている。梟の鳴き声も聞こえない静かな夜だった。その静寂を、彼女の足音が裂いていく。  帰るべき里は、まだ遠い。  同日、同時刻。  深夜にもかかわらず召集された文武の官たちは、帝国首都の中枢に位置する円卓の間で、一つの神託が下ったのを知らされた。  南に神子が降臨した、と。  円卓を囲む一同にどよめきが起こり、段取りもなく議論が幕を開けた。 「ただちに南へ偵察隊を向かわせるべきだ!」 「いや、本当に神子が降臨されたのならば、偵察隊などでは足りぬ。一個師団は必要ではないか」 「しかし、兵を出す余裕があるのですか? 今年の干ばつは皆さんご存じでしょう。民は皆、雑草を食べて飢えを凌いでいるのですよ」 「それに北狄の動きも活発だ。下手に兵を割けば……」 「では神子を見捨てると申すのか!」 「民のためならば、いっそう神子をお捜しせねばなるまい。この地に神子がお出であそばすと聞けば、民の心も安まろう」 「しかし」  尚も言いつのろうとした文官の言葉を止めたのは、一人の武官が立ち上がった、その衣擦れの音だった。揺らめく松明の光が彼の銀髪をより鮮やかに照らし出す。 「私が征こう」  赤い瞳が円卓に座る一同を睨め付けた。帝国において希少な瞳の色へ、文武の官は視線を集中させる。 「ホァロン将軍、貴公の一存で決められることではあるまい。控えよ」 「陛下には私からお伝えする。兵は私の手勢のみで結構。費用が足らんと言うなら、私の扶持からいくらでも持っていけ」 「手柄を独り占めする気か!」 「ならば貴公も来ればよかろう。南の名も無き山脈には未知の獣や毒草が多く、まともな道一つないと聞くが、それでよければな」  赤の視線が激した武官を突き刺し、何事もなかったかのように再び一同を見渡した。 「私は明朝、陛下に謁見を申し入れる。今回の出陣が叶ったとしても、困難なものになるのは間違いない。覚悟を決めた者だけ私と共に来てくれ」  ホァロンはそれだけ言うと、席を立った。振り向きもせず、円卓の間を後にする。その背中に室内のざわめきが届いていたのは、寸の間のことであった。  シェイが気を失った少年と共に里へ帰り着いたのは、東の空が白み始めた頃だった。家の前までなんとか辿り着いたが、その後の記憶は彼女にはない。  彼女の目が覚めた時には、日がかなり高いところへ昇っていた。体中の擦り傷は手当てされていたが、その小さな体を起こすのは、彼女にはひどく辛かった。窓の外は快晴だったが、シェイの心はぼんやりとした靄に包まれたままだった。それが疲労によるものかどうか、少女には分からない。 「シェイ、おはよう」  戸口を開ける音と共に聞き慣れた声が聞こえて、シェイは我に返った。シェイと同じ銀色の髪を高く括り上げた青年が、愛用している飾り気のないククリを腰紐から抜いていた。 「兄様……、おはよう」 「体は痛むか? 腹は減ってないか?」  寝床の横にあぐらを掻いて、年の離れた兄、ランシィは紫色の瞳でシェイの顔を覗き込んだ。 「体は少し重いけれど、元気。お腹が減りました」 「よし、ちょっと遅くなったけど朝飯にしよう」 「あの……」  立ち上がった兄の袖を、シェイは遠慮がちに引っ張った。「あの子は?」 「ああ。母様が診てる」  起きあがれるか、という兄の問い掛けに、妹は頷いた。彼女のそれに比べてずっと大きな手が、シェイの手を取る。少女は、兄の体温の高い手に導かれ、部屋を出て行ったのだった。  少年が目を覚ましたのは、朝食を終えたシェイが様子を見に来たその時だった。その青い瞳が瞼の奥から現れた時、母が目を見開いたのをシェイは見てしまった。しかし、母はすぐに微笑を浮かべ、少年を慈愛に満ちた瞳で見つめた。「体の調子はどう?」 「えぇと……大丈夫」  声変わりを迎えていない少年の声が、周りに年の近い者がいなかったシェイには新鮮だった。 「落ち着いたら、あなたのことを教えてくれる?」  少年は頷いた。こぼれ落ちんばかりの大きな碧眼が、ぼんやりと母子を見上げている。 「私はソォン。この子がシェイよ。もう一人、私の息子のランシィがいるわ。何かあったら、遠慮せずに言ってね」 「ソォンと、シェイ、ランシィ……。僕、は……僕は」  かぶりを振って、少年は目を閉じた。僕、と何度も何度も口の中で呟くが、単語ばかりで言葉にならない。 「僕は、……クンファ。僕は……」  やっと出てきた名前すら確証があるものではなく、しきりに首を傾げる。ソォンは溢れそうになる悲哀を隠し、クンファの頭を優しく撫でた。 「無理をしなくていいわ」 「……ごめんなさい。ソォン」 「いいのよ。ゆっくり休みなさい」  そう言って立ち上がったソォンと共に、シェイは部屋を去った。  ホァロンの出陣願いは、表向きには却下された。武官の多くは出自の分からない皇帝お気に入りの武将が恥をかいたことに手を叩き、笑い合った。笑いの種となった彼は、出仕を控えるという名目で屋敷に引きこもったと誰もが思っていた。 「皇帝も神官どもも、忙しないな」  大神官直筆の書状を一読してから、ホァロンは羊皮紙を燃やした。火種なき炎は一瞬にして羊の皮を消し炭にして、自身も音もなく消える。  水面下で着々と出陣の準備が進んでいるのを知っているのは、皇帝をはじめごく僅かだった。  クンファの記憶は数日の時間を要しても戻らなかった。衰弱していた体は徐々にだが確実に回復していたが、自分の名前以外は何一つ思い出せないままである。 「里のことも、キツネのことも、覚えていない?」  シェイは里の外れにある彼女お気に入りの小高い丘に座り、立ったまま周囲を見回しているクンファへ訊ねた。 「うん。なぁんにも」  思い切り背伸びをしてから、クンファは息を吐き出しながら言った。 「なぜ湖にいたかも、覚えてない?」  クンファは頷いた。そよ風が二人の銀髪を優しく弄ぶ。クンファの見つめる先には、彼が現れた湖が小さく映っていた。 「お前は風の者なの? 地の者なの?」  出会った夜と同じ問い掛けを、シェイは繰り返した。クンファは首を横に振る。 「分からないよ。僕には……」 「兄様も、お前と同じ。一人だけ、みんなと違う瞳の色をしている。兄様は紫で、お前は青」  振り返ったクンファの後ろ髪が風に靡いた。その髪をまとめているのは家の近くに生えていた葛だったが、少年はいたく気に入って毎日それで髪を結んでいる。 「シェイとソォンは、緑色だね」  少女に向かい合うよう、クンファは座り込んだ。 「それが風の者の瞳だから。地の者は鳶と同じ色。でも、紫と青は知らない」 「シェイにも知らないことがあるの?」 「……私はまだ、全てのお話を聞いたわけじゃない。私が知ってるのは、風と地の一族の神話だけ」 「他の一族もいるの?」 「……知らない。私は、見たことがない」 「じゃぁ、僕はシェイの知らない一族なのかな?」  少年は笑った。だが、少女の顔は強張っていた。クンファは首を傾げて、シェイ、とその名を呼んだが、少女は空返事をするばかりだった。  その日、ソォンは息子に家を任せ、風の長老の家へ行った。  長寿を誇るキツネの一族でも、数百年は生きていると言われている老婆は、深い皺の寄った手で一枚の羊皮紙をソォンへ渡した。 「そなたは字が読めたな。それを読んで、聞かせておくれ」「……長老様、これは」 「炎の鳥が運んできおったわ。燃えぬよう、石の箱に入れてな」  ソォンは羊皮紙に書かれた丁寧な字をゆっくり辿った。「神の子が、そなたたちの地に、降り立った。神の子の、探索を開始する。帝国へ、協力せよ」  言葉を句切りながら、ソォンは慎重に訳していった。その手にいつからか力が入り、小刻みに震え出す。 「名も無き山脈の者たちよ。古の悪習から、目覚めよ。大地の調和は、もはや崩れている。そなたらの神は、もういない。帝国の、庇護を受け入れよ」 「ソォン」  咎めるように、宥めるように、長老は彼女の名を呼んだ。深く息を吸ってから、ソォンは無理矢理、吐き出すように最後の行を読み上げた。 「先遣隊は、既に出発している。隊の命は、皇帝の命も同じ。隊の到着次第、神の子の捜索に加われ。将軍、ホァロン」  ソォンは羊皮紙を丸め、手が白くなるほど強く握りしめた。 「長老様、やはりホァロンを逃がすべきではありませんでした」 「過ぎたことを言っても仕方ない。今のあやつをどうにかせねばなるまいよ。ランシィには可哀相だが、ね」 「あの子には何も言うつもりはありません。あの子のためにも、あの子を兄と慕う、シェイのためにも……」  羊皮紙を長老の小さな手に返し、ソォンは唇を引き結んだ。老婆は小さな緑色の目を細めて、羊皮紙を感慨深く見つめてから懐に詰め込んだ。 「皆に伝えて、里の守りを固めておくれ。地の一族にも使いを。お前の子らは、水の里へ避難させな。ホァロンもあそこならもうキツネがいるとは思うまい」 「分かりました」  一礼して、ソォンは長老に背を向けた。その細い肩へ、老婆は優しい声を投げかける。 「ソォンや。お前一人で抱え込むな。ホァロンが里を出たのも、あの娘が死んだのも、……お前の夫が死んだのも、お前のせいじゃあない」 「……けれど、……止められたかもしれない。二人の友として、彼の妻として……。私は、いつだってそう思っています」  失礼します、と固い声で言って、ソォンは立ち去った。その背に負った過去の影を、老婆はしばらく悲しげに見送っていた。  シェイとクンファが家に戻ろうとした時、一族の者たちは里の中央に立つ大樹の前に集まっていた。輪になってああでもない、こうでもないと推測する人々から離れたところに立っていた兄を見つけ、シェイは走り寄った。 「兄様、何があったんですか?」 「俺にもよく分からんが、いい話ではないらしい。お前たちもここにいろ」 「ソォンは? どこにいるの?」 「……長老をお連れしている」  不快さを露わにしつつも、ランシィはぶっきらぼうに答えた。なぜランシィが不機嫌になるのかクンファには分からなかったが、気を取り直して無邪気な少年は輪の一角を覗き込んだ。 里に来てまだ数日にもかかわらず、持ち前の無邪気な明るさをもって、クンファは里の者と打ち解けていた。今もまた、大人たちの会話に聞き耳を立てている。 「シェイ、行きたければ行ってこい」 「……私、騒がしいのは嫌いです」  自分と同じく遠巻きに人々の輪を眺める妹の横顔を、複雑な心持ちでランシィは見下ろした。その銀髪も、抜けるような白い肌も、ランシィと同じだ。しかし、大きな緑色の目だけは、兄との差異を明確に示していた。 「兄様は、……」  少女の唇が何かを話しかけて、止まる。 「どうした?」  自分の腰ほどの位置にある妹の顔に目線を合わせるため、ランシィはしゃがみこんだ。紫の瞳が緑の瞳と視線を交し合う。 「兄様は……」 「皆、待たせたの」  しわがれた、しかし大きな声が響き渡った。シェイはそれ以上、言葉を連ねようとせず、ソォンに連れて来られた長老へ視線を向ける。 「先日、外の者たちから便りが届いた。この地にあやつらの神の子が降りたとやらで、力を貸せと申しておる」  淡々とした老婆の言葉が、人々の輪にざわめきを起こす。その視線の多くはクンファに向かうが、長老は調子を変えず続けた。 「この地は皆が知っての通り、古の神が我らキツネに託したもの。他の何人にも汚させてはならぬ」  夕日が老婆の顔に深い陰影を作っていく。小さな緑色の目が細まり、笑い皺が目じりに寄った。 「それにな。わしは、この地が好きじゃ。年中、心地よい風が吹く。食べるものにも、一応は困らぬ。何より、皆が争わぬ。  外では憎悪と争いが止まらず、いつでもどこかで血が流れていると聞く。あやつらが土足でこの地に踏み込んでくれば、ここもまた争いの場となろう。それだけは防がねばならぬ」  おう、という声が輪の中からいくつか上がった。その輪に向かって、ソォンは一歩踏み出した。ランシィを一瞥してから、人々をゆっくり見回す。 「地のキツネたちにも、同じように便りが届いていました。あちらの長老も私たちと同じお心です。今宵にでも戦の準備を始めると仰いました。私たちも里の守りを固めましょう」  その言葉を合図に、話し合いが始まった。  明日来るとも知れない、慣れぬ戦の為に。  ホァロンの隊は、道なき道を突き進んでいた。兵たちは、邪魔になる草木を切り捨て、小川を踏み荒らし、ホァロンの命ずるままに歩き続ける。 「神殿兵とは便利なものだな。朝夕の経さえ称えさせておけば、愚痴一つこぼさん」  腰に差したサーベルの柄に肘をかけて、ホァロンは面白くもなさそうに言った。 「将軍、滅多なことを言っては……」  唯一、ホァロン以外の帝国軍人である副官は、言葉を選ばない上司へ苦言を呈する。しかし、ホァロン以上に彼らを気味悪く思っているのは、他でもないこの副官であった。 「それより、進む先は本当にこちらでよいのですか? もう、私にはここがどこだか……」 「案ずるな。我々には神の導きとやらがあるらしい」 「坊主風情の、あいや、神官殿のお言葉を信じるのですか?正確な場所は分からぬとのことだったではありませんか」  前後を固める神殿兵の様子を伺いながら、副官は小声で小言を続ける。 「神子とやらも、本当にいるかどうか。  この辺りには、我々の知らない多くの鉱脈が眠っているという話を聞いたことがあります。それに、未知の薬草も多いとか。それが目当てなのでは」 「よしんばそれが目的であっても、陛下の命とあらば従うのが帝国軍人だ」  無感動に、ホァロンは正論を説いた。その建前に潜む本音が見えず、副官は合点がいかないまま再び進軍に集中せざるをえなかった。  話し合いの翌日。シェイは、ランシィ、クンファと共に、森の中を進んでいた。ランシィは背に大きな荷物を負い、子ども二人も体に見合った小さな荷を背負っている。その中に詰まっているのは、最低限の生活必需品と持てる限りの食糧である。 「ねぇ、この先にソォンが言ってた水の里があるの?」  起伏の激しい足下を気にしながら、クンファは先を行くランシィの背に訊ねた。そうだ、とだけ答え、大きな背中は振り返りもせず先へ進み続ける。  三人が里の外に避難することを、里の者たちは皆賛成した。その中にランシィがいるのに難色を示した者もいたが、ソォンが押し通したことを三人は知らない。 「兄様……、私も訊きたいことがあります」  ランシィは何も言わず頷いた。その表情は幼子二人には見えない。 「水の一族が、いたのですか?」 「そうだ。水の里に住んでいた」 「……今は」  少女は知らず、隣を歩く少年を見ていた。少年は首を傾げる。 「火の一族と共に滅んだ。二十年以上前のことらしい」  それだけ言うとランシィは口を噤んだ。それ以上水の一族のことを訊ねるのは気が引けて、シェイもまた押し黙る。  三人の足音と木々の梢だけが、六つの耳朶を打っていた。荷物の重さが疲労を誘い、次第に幼子二人は荒い息を吐き始める。  どれほど歩いたか、シェイとクンファには分からない。「少し、休憩するぞ」  二人の方へ振り向いたランシィの背には、穏やかな湖が広がっていた。 「おっきい!」  クンファは目を輝かせ、荷物を置いた。間を置かず、少年は草を蹴って走り出している。 「……元気な奴だ」  クンファの置いていった荷物を引っ張り上げ、ランシィはすぐそばの石の上に置いた。己の大荷物も肩から下ろし、小さな荷物に寄り添うように落ち着かせる。 「……兄様」 「シェイ、お前も顔を洗ってこい」  少女は兄の優しい言葉に甘えず、首を振った。 「シェイ?」 「兄様……私、まだ兄様たちに言ってないことがあります。  私、ここでクンファを見つけました」  夜の湖に輝いていた光の柱、そして丸い光の中から現れたクンファ。あの夜の光景が、少女の脳裏で鮮やかに蘇った。 「すべて……、すべて、あの夜から始まったのでは、ありませんか?」 「……それが、お前にとっての始まりでも、……いや」  なんでもない、と呟いて、ランシィは草の海に寝転がった。訝しげな妹の視線をかわすため、兄は目を閉じる。 「シェイもおいでよー! 水、美味しいよー!」  呑気なクンファの声が湖に響き渡った。拍子抜けしたシェイは、小走りに少年の元へ向かっていく。その揺れる長い銀髪を、そっと目を開いたランシィは優しい眼差しで見守っていた。  小休止の後、三人は湖から流れていた川沿いに歩き続けた。さほど時を要さず、目的の場所は目の前に現れる。 「おっきい滝!」  再び、少年は大きな瞳を輝かせた。大声を出したはずだが、滝の轟音に掻き消されている。 「水の里まで、まだ遠いんですか?」 「いや……すぐ近くまで来ている。水の里はこの下だ」 「下?」  兄に倣って、シェイは滝の下を覗き込む。しかし、白い泡が間断なく飛び散るのが見えるばかりで、住居らしきものは彼女の目には映らない。 「あ、分かった! ねぇシェイ、僕分かったよ!」  満面の笑みを浮かべ、クンファは足下を指した。 「裏側、でしょ!」 「……そういうことだ」 「滝の裏側に、里があるんですか?」 「ああ」 「僕、先に行ってるね!」  その意味を理解するのに、兄妹は一瞬の時間を要した。だが、クンファは二人を待ちはしない。  既に少年の足は、地を蹴っていた。 「あの馬鹿!」 「クンファ!」  シェイは手を滝下へ突き出した。突風が滝に飲まれたクンファの体をすくい取ろうとするが、それらしき感触をシェイに伝えない。 「シェイ、俺たちも下へ」 「はい」  兄妹は手を取り合って、少年と同じく飛び降りた。風が二人を優しく包み、落下速度を大幅に遅くする。  二人は川岸に着地したが、その時には既に、クンファは滝壺に落ちて姿が見えなかった。幾度か名を呼んだが、答えは返ってこない。 「兄様……」 「少し休んでいろ。探してくる」  不安そうに自分を見上げる妹を手近な石に座らせ、ランシィは荷物を下ろす。  そのまま川へ入ろうと振り向いた兄の袖を、シェイは座ったまま引っ張った。 「兄様、そこ……」  シェイの指さす先では、相変わらず滝が休みなく水を叩き落としている。  その水の壁を掻き分けるようにして、少年の顔が覗いていた。悪戯が成功した時の、とびきりの笑顔を浮かべながら。 「力は使えば使うほど命を削る。お前、そんなことも忘れたの?」 「うん……」  クンファはうなだれた。その衣服も荷物も、水に浸かったにもかかわらずほとんど濡れていない。無意識に力の使い方を思い出したクンファが、水を操ったのである。しかしさして変わった様子もなく、クンファは先ほどランシィがげんこつを落とした位置をしきりにさすっている。かの年長者は拳以外では語ろうとせず、黙々と先へ進んでいた。  滝の裏にぽっかりと開いた洞窟は、ヒカリゴケに覆われていたため明かりを必要としなかった。しかし、ところどころでヒカリゴケは黒ずみ、死滅していた。 「私たちの力は古の神から与えられたもの。でも私たちは神じゃないから、過ぎた力を使うには命を削らなきゃいけない」 「命を? じゃあ、力を使いすぎたら死んじゃうの?」 「死ぬ時が早まる。そう母様から聞いた」 「そう、なの?」  合点がいかないクンファは、難しい顔をして唸った。 「とにかく、簡単に力を使ってはいけない。分かった?」 「……うん」 「……水と火の一族を滅ぼした男は、強大な力を有していたらしいが」  ランシィは黙りをやめ、ぼそりとそう言った。 「一族を丸々滅ぼしたんだ。長くは生きられなかっただろうな」  その時、ランシィの紫色の目に何が映っていたのか、後ろを歩く幼子二人には分からなかった。 「私は、外の世界が見たいの」  青い瞳の女が、笑った。大きなお腹を抱えて。 「外の世界へ、行ってみたいの。ねぇ、この子と一緒に行かない?」 「ねぇ、ホァロン」  風は、もう止んでいた。  焼け焦げた大樹の幹を、ホァロンは無感動に見上げていた。上弦の月が薄明かりで焼け焦げた風の里を照らしていた。その月に既視感を覚え、男は初めてその表情を僅かに崩す。ホァロンの胸に去来したのが何だったのか、その場の誰にも分からなかった。 「ホァロン将軍!」  副官の声が、男を現実に呼び戻した。清涼な森の空気に混じり、物の焦げた臭いがホァロンの鼻をくすぐっている。 「逃亡者は、北に点在する洞穴へ逃げ込んだ模様」  振り返って言い放った男はもう、常の軍人の顔に戻っていた。 「明朝その洞穴へ向かう。明日に備え、今宵はゆっくり休め」  朗々と、ホァロンの声が一族のいない風の里に響いた。隊伍を崩さず、神殿兵たちは幕舎へ向かう。再び大樹の幹を見上げるホァロンへ、副官が駆け寄った。 「将軍、見事な火計でした」 「世辞はいい。お前も早く休め」 「世辞などでは! まるでおとぎ話に聞く魔法のようでしたよ」  ホァロンは眉をひそめ、尚も言いつのろうとする副官を置いて己の幕舎へ向かって歩き出した。  空では、上弦の月が笑っていた。  水の里に避難して、数日が経った。洞窟の奥は乾燥している場所があり、三人はそこで寝起きをしていた。また、場所によっては地上にかなり近く、崩れた箇所から光が漏れて、辛うじて何日経過したかが分かる。  洞窟を支配する湿気と静寂は、三人の心を落ち着かせることはなかった。慣れない環境とすることのない生活は、三人の不安を掻き立てる。  最初に動いたのは、ランシィだった。 「様子を見てくる。お前たちはここを動くな」 「兄様、行かれるのですか……?」  心配するな、と言ってランシィは妹の頭を撫でた。 「シェイ、こいつを任せたぞ」 「はい」 「大丈夫だよー、もう無茶しないから」  抗議するクンファの頭をぽんぽんと叩き、ランシィはククリを腰に差して洞窟を出た。  数日前に辿った道を遡り、湖まで来た時、ランシィはやっと異変に気付いた。以前は湖からでも見つけられた風の里の大樹が、なくなっていたのである。  冷たい汗が、ランシィの背を伝った。矢も楯もたまらず、ランシィは地を蹴った。先日、自分たちが歩いてきた道を、脇目もふらず走り抜ける。その足が止まったのは、シェイが気に入っていた里を一望できる丘の上だった。  焦げて見る影もない大樹の幹、燃え尽きた家の跡、そして、うずたかく積み上げられた死体が、ランシィの瞳の奥に否応なく刻み込まれる。その中に横たわる母の姿を想像し、彼は唇を噛んだ。  暴れ出したくなる衝動を、ランシィは必死に抑えた。大きく息を吸って、ゆっくり吐く。取り入れた空気には焦げ臭さが混じっていたが、彼の冷静さを取り戻すには十分だった。 「そうだ……地の里は」  ランシィは、風の一族と共に徹底抗戦を決めた地の一族の里に、幾度か母に連れられて行ったことがあった。一縷の望みをかけて、ランシィは走り出す。  記憶を頼りに森を駆け抜ける彼の耳に聞き慣れぬ風音が届いたのは、地の一族が住む洞穴までもう少しというところだった。  ひゅ、ひゅ、と乾いた音が何度も走る。焦げ臭さがひどくなり、ランシィはたまらず眉をひそめた。  煙が木々の間から間断なく迫り、紫電の瞳を襲う。口元を手で覆いながら、ランシィは姿勢を低く取って茂みに身を隠した。  程なく風向きが変わり、煙が僅かながら薄れた。その先でランシィには見慣れない衣服を着た者達が、鏃に燃えさかる炎を宿した矢を射ている。 「火の矢……? あの程度なら風を呼べばすぐに……いや」  風の里が壊滅した今、それは不可能に近いことだった。母の顔を思い浮かべ、ランシィは唇を噛む。  このままここで地の里の様子を窺っていても埒が開かない。ランシィは密やかに立ち上がり、元来た道をひた走った。 「……もう、他に方法はない」  憎らしいほどに青い空を一瞥し、ランシィは小さく吐き出した。  白い手で繋がった二人が、走る。木々の隙間を擦り抜けるように、ひたすらに走る。  時折、苦しそうな吐息が漏れる。前をいくキツネは、しかし足を止められなかった。 「もっと遠くへ……もっと北へ」 「えぇ……!」  重い腹を抱え、後ろを走るキツネはそれだけ言った。  だが、残酷な現実が二人の前に立ちふさがる。 「……そんな!」  崖の下は見えなかった。赤い瞳に映るのは、底のない真っ暗な闇ばかり。  二人は振り返った。その時にはもう、爛々と輝く青と赤の瞳たちが二人の周囲を囲んでいた。 「その子を殺せ」 「その子は災厄をもたらす」 「子を殺せばおまえ達は許す」 「半端な間の子だ」 「神がお許しになるはずがない」 「一族のために」 「おまえ達のために」  声がこだまする。大きな腹を守るように、彼女は座り込んだ。 「嫌……! 嫌ぁ……!」  首を振り彼女は叫んだ。キツネ独特の白い装束の股から、真っ赤な血が流れ出す。 「しるしが出た」 「生まれてしまう」 「仕方がない」 「仕方がない」 「……殺せ」  必死に伸ばした手はしかし、彼女に届く前に抑え付けられた。無数の赤と青に、彼の愛した青が掻き消されていく。二人の手はもう、繋がらない。 「助けて、ホァロン」  地のキツネが抵抗していたのは、最初の内だけだった。大地を揺らし、雨のように石の礫を降らせた彼らに、任務に忠実な神殿兵達も相当手こずっていた。  だが、一日、二日と挑発を続けていけば、次第にその力は弱まっていった。その間に、ホァロンは地の里の抜け道すべてに火計の用意をさせた。  そして、三日目。  洞穴のすべての抜け道に、火が放たれた。 「私に続け!」  号令を下すと同時に、ホァロンは地の里に突入した。火の手がない唯一の出口に、地のキツネ達が殺到している。  ホァロンはサーベルを抜き、地のキツネ達を斬り捨てていった。神殿兵達もまた、無感動に異教徒達を殺していく。元より慣れない戦闘と力の酷使で疲労していたキツネ達には、さしたる抵抗もできなかった。  無慈悲な殺戮が地の里を蹂躙していく。洞穴の奥へと突き進むホァロンの顔を見て、目をむいたキツネも何人かいた。だが、彼らは言葉を発する前にホァロンのサーベルで貫かれていた。 「呆気ない」  もはや逃げまどうキツネの姿すらなくなった洞穴の中で、ホァロンは小さく呟いた。何一つ高揚しない復讐は、終わりを告げようとしている。 「ホァロン将軍! 後は兵にお任せを……」  副官の声が響き、ホァロンが踵を返そうとした時だった。  風が、走った。  汗と煤にまみれた兄が帰ってきたのを見て、シェイは顔を硬くした。 「兄様、里は……、母様は?」  ランシィは首を振る。妹の緑色の目に溢れる涙を見ていられず、小さな体を抱きしめた。 「風の里はもう、ない。地の里にも火の手が上がっていた。……シェイ、お前は逃げろ」 「兄様は……?」 「俺は母様を探しに行く。……クンファ」  悲しげに兄妹を見守っていた少年は、青い瞳でランシィを見上げる。 「シェイと一緒に南へ逃げろ。追っ手が来ても戦おうとするな。……風と水がお前達を守ってくれる。いいな?」 「ランシィも……ランシィも逃げよう? きっとソォンだって、どこかに逃げてる」 「保証はない。……それに」  ランシィの目が光る。深いアメジストのような紫がゆっくりと業火の色に浸食されていくのを、シェイは呆然と見つめた。 「俺は……、奴らを許さない。たった一人になっても、奴らを」 「……兄、様」  ランシィの周囲に、現れるはずのない陽炎が揺らめく。激しい熱に驚いたシェイは、兄の腕の中で身じろいだ。  だが、クンファは惑うことなく静かに首を振る。 「どうしても行くのなら、僕も連れて行って」 「お前が来てなんになる。早くシェイを連れて……」 「死ぬためじゃない。生きるために一緒に行くんだ。シェイもランシィと離れたくないでしょう?」  どこか老成したような青い瞳が、じっと兄妹を見つめる。ランシィが言葉を失っている間に、シェイは頷いていた。 「兄様、私も……行きます」 「……お前達は……」  ランシィの瞳がいつもの紫色に戻っていく。その手を引いて、クンファは笑った。 「大丈夫。風と水が僕たちを守ってくれる、でしょう?」  青空と同じ瞳がランシィを見つめている。 「……分かった」  胸を突く懐かしさにも似た感情の名前がなんなのか、ランシィには分からなかった。答えを見つけるよりも先に、やるべきことがある。  ランシィは二人の幼子を連れて、走り出した。  炎が、踊る。輪を描いて、縦横に、左右に、狂う。  キツネが、逃げまどう。  赤が、赤をよりいっそう赤く染め上げる。  赤が、青を燃やす。  燃やす。燃やす。燃やす。 「もうやめろ……!」  風が炎を押し返す。緑色の瞳が、炎の中できらめく赤を見つめた。 「やめてくれ……! ホァロン」 「……返せ」  唯一の赤が、濡れる瞳をかつての親友へ向けた。 「シェイを返せ。返せ。返せ。返せ」  涙に揺れる赤い瞳に映るのは、血まみれになった愛しい娘。 「返せぇぇえええええええ!」  最後の炎が爆ぜ、緑の瞳に襲いかかった。   洞穴の中で吹くはずのない突風が、ホァロンの全身を襲う。既に副官は倒れ込み、目の前の女を怯えた目で見上げていた。 「こいつ……生きていたのか!」  緑色の瞳が副官を睨み付ける。それだけで刃のような風が鎧の隙間から肢体を切り裂き、血煙を上げた。 「ホァロン……!」 「死に損ないが何の用だ」  ホァロンは平坦な調子で吐き捨てた。足下に倒れた副官を、神殿兵の一人が抱え上げる。自身の副官に一瞥すら与えず、ホァロンはかつての友を見遣った。 「あの時のあなたも、死に損ないだったわ。それでも水の里と火の里を滅ぼし、私の夫に深手を負わせた」  深い緑の中に潜むのは、ホァロンと同じ闇だった。ホァロンはゆっくりと笑みを浮かべる。 「あの人は十年前に死んだわ。あなたを止め、私たちを守るために命を削ったせいで……、なすすべもなく衰弱していった。なのにあなたは……」 「愚か者どもめ。まだそんな迷信を信じているのか?」  ふわり、ふわりと炎の塊がホァロンの周囲を飛び交う。 「迷信、ですって?」 「この力を使うたびに命を削っているのではない。元の姿に戻ろうとしているだけだ」 「元の、姿?」  ホァロンは、再び風を呼び始めたソォンを口の端で笑う。 「地火風水のキツネは、それぞれの力がヒトの形を取ったもの。元は精霊ですらないただの力に過ぎない。ゆえに」  炎が踊る。神殿兵すら巻き込みながら、ホァロンは炎の塊を周囲へまき散らした。強風がソォンを守るのを、ホァロンは無感動に見つめる。 「強い力を行使し続ければ、いずれこの体とてただの力に戻る。無慈悲で形のない自然の力に。体はただの容れ物に成り下がり、いずれは魂すら消え去る」 「でもあなたは、生きているわ!」  風と炎がぶつかり合う中で、ソォンは叫んだ。踊る炎の中で響いたのは、哄笑だった。 「ははははははっ、はははははははっ!」  燃え盛る炎の中で、ホァロンの狂った笑い声が朗々と響く。  ヒトの頭ほどもある火の塊が、風を裂いてソォンを襲った。咄嗟に身を引いたソォンは、しかし側を駆け抜けた高熱に片足を焼かれて膝をつく。  ソォンが見上げた先で、光をなくした赤い瞳がぽっかりと闇を映していた。 「私はシェイと一緒に死んだのだよ。この体を動かしているのは、お前達への怨嗟だ。他の感情など全て消えた。そして怨嗟すら、今消える」  何もかもを捨て去った顔で、ホァロンはゆっくりと手を伸ばした。炎が揺らめき、踊る。 「さぁ、シェイのところに逝け。私もすぐに逝く」  目を閉じたソォンの胸裏に走ったのは、亡き夫の面影だった。  突如降り注いだ雨に、火矢を構えた神殿兵達は周囲を見回した。彼らが洞窟の中で起こした火は、降り注ぐ不自然な雨で瞬く間に消えていく。  無駄口を叩くこともせず、神殿兵達は妖しい術を使う異教徒を捜した。風と地のキツネと戦ってきた彼らは、既にその力に狼狽することはなかった。 「こっちだよ」  戦場に似合わぬ明るい声が木々の間から木霊する。乱立する樹木の中から、青い瞳の少年が顔を出していた。  雨に火を消された矢が、幼い顔へ容赦なく射られる。しかし矢は全て突風にさらわれ、明後日の方向へ落ちていった。  神殿兵達がもう一人の術者を探して視線をさまよわせた瞬間、木々の陰からククリの斬撃が振り下ろされる。  鈍い音と共に血しぶきが飛んだ。咄嗟に別の兵が弓を構えたが、矢を放つ暇もなくククリに首を掻き斬られる。少し離れた場所にいた兵が飛び出てきた男に矢を射たが、再び吹いた風に煽られて矢は力なく落ちていった。  躊躇いなく次の矢をつがえた兵の真上に、小柄な影が飛び降りる。小さな手が兵の口と鼻を塞ぐと、見る見るうちに水が溢れていった。さしもの神殿兵も混乱し、自分の背にまとわりつく者を振り落とそうと暴れ回る。  そうこうしているうちに、他の数人の兵達を沈黙させたククリが混乱している兵の腹を貫いた。  元より火計のために配置されていた兵は少なく、地の里に繋がる抜け穴の一つは本来の静けさを取り戻した。 「うまくいったね」 「今はな。早く中へ」  血まみれのククリを手に、ランシィは走り出した。その背を追って、クンファとシェイもまた駆け出す。 「ここが地の里……?」  淡く輝く鉱石で照らし出された洞穴の壁を横目に、クンファは呟いた。 「ああ」 「でも、キツネはいないよ」 「……おそらく、もう」  ランシィが言い終わる前に、熱風が三人の全身を叩いた。咄嗟に突き出されたクンファの両手から、三人を守るように水の膜が広がる。  水が蒸発していく激しい音が響いた。一瞬の後、その音は嘘のように静まる。もうもうと溢れる水蒸気に包まれ、三人はたまらずむせ込む。  少し遠くで、男の声が聞こえた。淡々と紡がれるその声に、しかしランシィは奇妙な既視感を覚えて走り出す。 「兄様!」  シェイの高い声が響いても、ランシィは足を止めなかった。 「……私もすぐに逝く」  どくり。ランシィの胸が激しい音を立てる。聞いたことがないはずだというのに、その声には覚えがあった。  紫色の目に、膝をついた母の背が映る。そして、その前に立つ人形のような男の姿も、周囲で踊る炎の塊も。 「お前は……!」  洞穴の中にランシィの声が反響した。目の前の男と酷似した声に、全ての炎が再び揺らめく。 「ランシィ……!」  振り向いたソォンがその名を呼んだ時、初めて男の目に僅かな光が宿った。業火の色を宿した瞳が、紫色の瞳をひたりと見据える。 「ランシィ……?」 「……お前、は」  違う。ランシィは口に出せなかった。否定したい思いと、否定できない現実が彼の中でせめぎ合う。 「ソォン……貴様、生かしていたのか」 「母様!」  火球の一つがソォンへ飛ぶ。ランシィは彼女の前に躍り出て両手を広げた。  瞬間、ランシィの瞳が青く染まる。先ほどクンファが作り出したものと同じ水の膜が広がり、火球とぶつかりあって激しい音を立てた。  水蒸気を裂くように再び火球が飛びくる。容赦ない火の礫は、ランシィが作り出した水の膜を次々と蒸発させていった。 「ホァロン、やめて……! この子はあなたの!」 「違う! 違う、違う、違う!」  首を振るランシィの瞳は、見る見るうちに赤く染まっていった。水の膜は消え、変わってランシィの周囲にも炎が踊り出す。 「俺の母は風のキツネ、ソォン! 父は……!」  全て口にする前に、炎の塊がランシィを襲った。だが炎は彼の体を焼く直前で周囲へ広がり、ランシィとホァロンを中心に灼熱の輪となっていく。  感じたことのない熱に全身を包まれても、ランシィは汗一つ掻かなかった。ただ目の前の男を睨み付ける。  小さな光を宿した真紅の目が、ゆるゆると笑みの形に広がっていく。だが、そこに潜む感情を読み取ることは、ランシィにはできない。 「愚かな……、愚かな女だ。こんな脆弱な力しか持たぬものを情だけで生かし……、疎まれると分かっていながら、なおもキツネであれと育てたというのか」 「黙れ……! 母様を侮辱する者は許さない!」  膨れ上がる怒りと共に、ランシィは己の拳に炎を宿らせた。ホァロンはそれをいとも簡単に受け止め、至近距離で自分と同じ色に染まる瞳を見下ろす。 「本当に愚かだ……。お前の母が風のキツネであるはずがない。お前の瞳がそれを教えてくれたろう?」 「ぐ……ああああ!」  熱い手がランシィの拳を焼く。振り払おうともがくランシィを、ホァロンは無感動に見つめた。 「お前の母は水のキツネ、シェイ。お前の父は……火のキツネ、ホァロン。お前がどう思おうと、それが事実。お前は滅びた一族の生き残り……。そして、奴らが殺そうとした、忌むべき災厄の子」 「俺は……!」 「苦しかったろう? この二十五年間、自分が疎まれていると肌で感じながら、その理由も知らず生きてきたのだから。心許せる者などいない、あんな閉鎖された村で。辛かっただろう?」 「……俺、は……!」  ランシィの瞳に浮かぶ涙は瞬時に蒸発する。真紅は緩やかに紫へ戻っていき、ホァロンの炎だけが二人を包み込まんと輪を狭めていった。 「ホァロン、お願い……!」  遠くでソォンの悲痛な叫びが響く。ランシィは業火に迫られる中、力なく膝をついた。 「さぁ、母のところへ逝こう……。父と共に」  赤の瞳に映る闇が、ランシィへ手を伸ばした。ランシィはもう、首を振る気力もなく目を閉じた。  ――どうしてぼくのめはかあさまとちがうの?  ――どうしてみんなはぼくをこわいめでみるの?  ――どうして、どうして。  問うたびに、ソォンは悲しげな顔をした。だからランシィは、次第に自分の疑問を胸の内だけに隠すようになった。  ひどい火傷の跡が残る父は、ランシィが物心ついた頃から伏せっている。それでも調子のいい日は寝床から起き上がることもあったが、年を経るごとにその回数は減った。  だがある日、父はずいぶん調子が良かった。珍しく笑って、床から体を起こすとランシィをそばに呼んだ。 「お前に妹か弟が生まれる。なにがあっても、生まれてくる子を守ってやってくれよ。ランシィ」  ランシィは実感がわかないまま、頷いた。  父が亡くなったのは、その数日後だった。  ホァロンの手が息子の頬を焼く前に、降るはずのない強風を伴う豪雨が二人を強かに打った。  走馬燈のように蘇ったかつての記憶が、ランシィに力を与える。勢いを弱めた火の輪から飛び退る彼のそばに、二つの小さな影が駆け寄った。 「ランシィ!」 「兄様! 火傷……!」  柔らかなシェイの手が、火傷を負ったランシィの手を包む。涼やかな手が火傷を優しく冷やしていった。 「平気だ。……ありがとう、シェイ」  微笑んだランシィの目は、いつもと変わらぬ神秘的な紫だった。シェイは泣き出しそうな顔でランシィの腕を抱きしめる。 「兄様は、兄様でしょう?」 「……当たり前だ」  寄り添う兄妹を、再び光をなくした赤い瞳が射抜く。だが彼が呼び出した炎は、降り続く雨にどんどん小さくなっていた。  ホァロンと兄妹の間に、青い瞳の少年が立ちはだかる。 「クンファ……!」  シェイの呼びかけに応えず、クンファはただ真っ直ぐにホァロンを見上げた。 「あなたはなにを得たの?」 「貴様は、何者だ……」 「失った心の代わりに手に入れたのはなに? 消えてしまったものは戻らないと知っていて、それでも力を求めたのはなぜ?」 「何者だと、聞いている」  かみ合わぬ二人の言葉が、蒸気に溢れる洞穴の中で響く。  青く冴え渡る瞳と、赤の中に闇を宿す瞳が交錯する。 「知りたい。なぜあなたはこうなってしまったの? なぜ彼らはあなたに殺されてしまったの?」 「過ぎたことを言ってなんになる? なにをしたところでシェイは戻らない。ならば私も」  闇の中で赤い瞳が揺らめくのを、クンファはただ見つめていた。 「私もあいつのところへ逝く。あいつをこの世から追いやった者すべてに、あいつと同じ絶望を与えてから」 「それがあなたの、答え?」  ホァロンは返答の代わりに、自身に炎をまとわせた。降りしきる雨でも、彼の体を包む炎を消すことはできない。 「クンファ、逃げろ!」 「クンファ!」  兄妹の叫び声に、クンファはそっと振り返って悲しげに微笑んだ。炎の腕が小さな体へ伸びていく。 「馬鹿!」  ランシィは妹の手を振りほどき、クンファの小さな体を後ろへ引き倒した。ヒトの形をした炎の塊へ、少年を庇って自らの体をたたき付ける。  クンファの呼んだ雨が、ランシィの呼んだ水が、ホァロンの炎とぶつかり合った。  轟音が、洞穴を襲う。幾度となく水蒸気爆発に晒された洞穴は、とうとう崩落を始めた。  あにさま。  シェイが一番最初に口にした意味のある言葉。ランシィは小さな小さな妹を抱き上げて、生まれて初めて心の底から湧き出る喜びを知った。こぼれ落ちそうな緑色の瞳は、ランシィを蔑むことも、哀れむこともしない。  愛しい妹の傍にいられるなら、どんなに冷たい周囲の目にも耐えられた。自分が自分であることを、卑下することもなくなった。 「……シェイ」  守れただろうか。助けられただろうか。ランシィは薄ぼんやりとした意識の中で、妹の顔を思い浮かべた。そして、妹が連れてきた不思議な少年の顔も。  ランシィの意識はゆっくりと浮上していく。数度、瞬きをすると、紫色の瞳に光が戻ってきた。見上げた先には、厚い幕が掛けられている。 「……ここは」  手を動かそうとしたランシィは、手首に食い込む荒縄に気付いて目を見開いた。体を起こそうとしたが、足首も荒縄で縛られている。 「目が覚めたか」  平坦な声が響いた。自分とよく似たその声に、ランシィの全身は怖気だっていく。  彼を見下ろしていたのは、体中のいたるところに包帯を巻いたホァロンだった。ところどころに覗く肌は赤黒く、火傷の重さを物語っている。  ランシィもまた、全身に走る痛みをようやく知覚した。あちこちに裂傷や火傷があるが、ホァロンほど重い傷はない。そのどれも、丁寧に処置されていた。 「我々は帝都へ戻る」 「なん……だって?」 「帝都。北にある、お前達を南蛮と呼ぶ連中のいるところだ」  ホァロンは全身を襲う痛みを気にする素振りもなく、ただ淡々と事実を述べた。 「……俺を、どうする気だ」  実の子に睨み付けられてもホァロンは変わらない。血のように赤い瞳でランシィを見下ろしていた。 「ソォンは地の里の抜け穴近くで見つかった。だが、子供二人はどこに消えたか……」  ぎり、とランシィは奥歯を噛み締める。眉一つ動かさず、ホァロンは続けた。 「見つけ出して殺す。だが、この体ではままならん。……お前が水のキツネを庇うと思わなかったからな」 「どうする気だと聞いている」  ランシィの目がゆっくりと赤く染まり始める。ホァロンは目を細めてそれを眺めると、初めて表情を少し変えた。 「お前は私と共に帝都へ行くのだ。もうお前は疎まれることもない。古い掟に縛られることもない」  ホァロンはあくまでも抑揚のない声で言った。だが、その目には僅かな熱が宿っている。 「お前を厭い続けたキツネを滅ぼせば、私はシェイのところへ行くだろう。後はお前の好きにするといい。あの時、そうするはずだったように私と共に死んでもいい。……シェイの望んだ外の世界で生きてもいい」 「俺はそんなことを望んでいない!」  激高するランシィを、ホァロンは静謐な瞳で見下ろした。 「ではなにを望む。お前を蔑んだキツネ達の里で、帰らぬ日を想って一人で暮らすとでも?」 「……俺は、里の奴らを恨んでなんかいない」  ランシィは力なく呟いた。怒りに染まっていた赤い瞳がゆっくりと平素の紫へ戻っていく。激高のまま炎を呼ぼうとしたはずが、彼に訪れたのは強い疲労感だった。 「奴らが俺をどんな目で見ていても……。母様とシェイがいれば平気だったんだ」 「……ソォンの娘か。よりにもよって同じ名を付けるとはな」  無感動なホァロンの声を聞きながら、ランシィは目を閉じる。 「それに、根絶やしにしたはずの水の子どももいた。あれは何者だ」 「……知らない。突然現れた……」  疲労感と共に睡魔に襲われ、ランシィは再び意識を手放していく。遠くに自分とよく似た声を聞きながら、ランシィは眠りに就いた。  氷の粒の海を裂いて、長大な体躯がうねる。  一声鳴けば雷が轟き、彼の周囲を一瞬照らした。  常に付き従っている彼の眷属は、彼よりずっと小さな体を楽しそうにくねらせた。この体で空を飛ぶのはずいぶんと久しぶりだったのだ。 『レンフェイ様、どこへ降りましょう?』  甲高い声が彼の脳裏に響く。 『万物の精気が最も溢れるところへ』  彼の目に誘われるように、小さな眷属はそこを見遣った。 『あの山ですか?』 『ああ。あそこはみずみずしい精気に溢れている。この大地はあそこから生まれたんだろう』  雷鳴の中で、彼は新鮮な空気を思い切り吸い込んだ。 『やはり、未だ開かれぬ世界はいいな。心が躍る』  弾む声を残し、彼は急降下した。暗雲の中で山々の緑が急激に近づいていく。 『お待ちください、レンフェイ様!』  置いていかれた小さな眷属は、慌てて主の後を追うのだった。
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