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葉山? 聞き覚えのない名前だ。
安くはないホテルだ。どちらかといえば高級な上流階級向けのホテル。そんなところに来るような格好ではない。まして抱っこ紐のようなものをつけて立ち寄るところじゃない。
エレベーターが開いて、「沢木、子ども用の温かい飲み物を用意してくれ」と続けて出るのを制されてエレベーターに押し戻された。ドアはすぐに閉まった。
子ども用の飲み物なんて部屋からフロントに電話をしたらすぐに持ってきてくれる。
これは、僕を遠ざけるための言い訳だろう。何か理由があるのだろう。
再びフロントまで降りたエレベーターを降りると厨房へ向かう。手前のホテルマンに、「子ども用の飲み物を用意してほしい」と頼むと子どもの年齢を聞かれて、「1、2歳くらいだと思います」と返事をした。
子どもは愛らしくて抱かれていたからまだ歩かないほどの年齢かもしれない。
身近に子どもがいないからよくわからなくて、適当な年齢をいうと、「数種類用意しますので、少々お待ちください」と待たされた。
部屋まで持っていくというホテルマンに自分で持っていくからと大きめのトレーを受け取った。
胸騒ぎがする。
動揺する桐生をあまり見たことがない。
部屋の入り口をノックすると中から桐生が開けてくれた。
「温かいものを用意しました。お子さんは何がいいのか分かりませんでしたので、数種類用意しましたが……」
ソファーの向かいのセンターテーブルの横に跪いてトレーをテーブルの上に置いた。先ほどまで抱かれていた子どもはテーブルを伝って歩いていたが、不意に手をトレーに伸ばした。
何をしているか分からなくて、判断が遅れてしまった。
「あ、ショウ。危ない」
葉山の声と同時に、『ガシャァンッ』と派手な音を立ててテーブルからトレーが落ちて、「うぁあああん」と子どもが鳴き声を上げた。
子どもは後ろに尻餅をついていて、桐生が慌てて抱き上げて濡れていないかチェックした。
「ショウ、ショウ大丈夫?」
桐生から子どもを受け取って慌てて体を確認して、「なんともないみたいだ」と桐生が答えた。
「沢木さんすいません」
葉山に謝られてはっとなった。
床には毛足の長い絨毯が敷かれていて、グラスは割れていなかったが中身はこぼれてしまっていた。
「いいえ。私の配慮が足りませんでした。すぐに片付けます」
トレーの横に置かれていたナプキンで床を押さえる。
床を拭いていると、葉山はじっと僕を見ていて桐生が、「沢木は俺の番だ」と言った。床を拭いていたのでスーツの襟から噛み跡が見えたのだろう。普段の生活では人に見られることは少ないから、改めて見られると気恥ずかしい。だけど、桐生が僕を番だと紹介する相手。
どういう関係なのかますます謎だ。
「ご、ごめんなさい。帰ります」
葉山は急に荷物を掴むと部屋の入り口に向かう。桐生は慌てて葉山を追いかける。
「待ってくれ。送るから。コートだって忘れている」
慌てる桐生が葉山の腕を掴むと、子どもを抱いていたせいでよろけた。桐生がそれを抱き止める。
「放して、放してくださいっ、近寄らないで」
フワッと香る甘い匂い。これは桐生の香りだ。そして、葉山からも匂う。
匂いは強くなる一方だ。
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