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「私、及川さんになりたいです!」
成り行きで一緒に暮らすことになった環。
予想通り生活力はゼロだった。
家事は全て俺が担っている。
そんな居候の環が目を輝かせて言う。
此処は風呂場だ。
もちろん2人で一緒に入ってた訳じゃない。
俺の入浴中に環が飛び込んで来た。
共に暮らして3ヶ月。
コイツの突飛な行動には慣れた。
俺は冷静に返す。
「俺はお前になりたいよ」
「何でです?」
「毎日、楽しそうだ」
嫌味のつもりだったんだが。頭の中がお花畑な環に通じる筈も無く。
「楽しいです。及川さんは楽しくないです?」
「楽しくは無いな」
「かわいそうです」
半分以上はお前のせいだ。こんな調子だから気苦労が絶えない。
「だから、俺になんてならない方がいいぞ」
「及川さんにはなりたくないです」
「さっきなりたいって言ってただろうが」
「私は及川さんになりたいんです。どうしたらいいです?」
いつにも増して意味不明だ。
「……落ち着いて話せ」
環が言うには。知り合いの女性たちは両親や夫と同じ姓を名乗っている。
なのに自分は共に暮らす俺と同じ姓では無い。
それが嫌なのだと、半分泣きながら訴えた。
「俺たちの名前なんか便宜上のもので本物じゃない。何でこだわる」
「及川さんと一緒がいいです」
「別に不便は無いだろ」
「一緒がいいんです!」
泣くほどのことか?
やはりコイツは理解できない生き物だ。
「わかった。じゃあ養子縁組しよう」
「……よーし?」
「お前を俺の娘にする。それで同じ姓を名乗れる」
俺の戸籍なんかあって無いようなものだが。
精一杯、妥協する。
なのに環は不満そうだ。少しの表情の変化で手に取るように分かる。
「妻がいいです」
妻の意味、分かっているとは思えない。
「一応、聞くが。何で娘じゃ嫌なんだ」
「娘は嫁がされます。及川さんじゃなくなります」
なるほど。意外と賢いな。
「妻はずっと及川さんです。ずっと」
環とは他人だ。お互い独身だし、結婚したところで問題は無い。
親子ほど年の離れた夫婦も居る。
「妻……か」
環は魅力的な女性だ。彼女を妻に出来たら幸せだろう。
でも無理だ。
何故か抱く気にはなれない。
きっと彼女を傷つけることになる。
そして、彼女の人生を虚しいものにしてしまう。
愛される喜びを知らずに生きるのは辛い。
「しなくてもいいです」
「結婚を、か?」
「違います。えっちなことです」
ストレートに言われて思わず目を逸らした。
「及川さんは男として役に立たないです」
ちょっと待て。
「って、柳さんが」
……あの野郎。環に何を吹き込んだ。
ヘラヘラ笑う同期の顔が目に浮かぶ。
……待てよ。環には、そう思って貰っていた方が都合がいい。
抱けない理由になる。
「……本当のことだ」
「そうなんですか」
「じゃなきゃお前に何もしない訳ないだろ」
「私に魅力が無いからだと思ってました」
「そんなことは無い。自信を持て」
「じゃあ、一緒にお風呂入ります」
「……何でそうなる」
「私の魅力で及川さんを治します」
そう言って環は服を脱ぎ始めた。
さすがの俺も裸で迫られたら誘惑に負けるかもしれない。
「……待て!わかった!」
「何がわかったです?」
「お前の覚悟はわかった」
「覚悟?」
「そんなに俺の妻になりたいなら受け入れる」
「ホントですか!今日から及川環ですか!」
「だけど生活は今まで通りだ」
「今まで通り?」
「互いに干渉しない」
そう言ったら、環は少し寂しそうだった。
「いいです」
「どっちの意味だ」
「及川さんの大切な人になれないなら、吉岡環でいいです」
環は、とぼとぼと風呂場を出て行く。
一気に疲れが出た。湯船に沈みそうになる。
「大切な人……か」
俺にとって環はただの相棒。
失ったとしても仕方ないと思っている。
むしろ心労が減って喜ばしい。
「……本当に……そうか?」
この家から環が消えたら。
目の前から居なくなったら。
俺は孤独に耐えられるだろうか。
「及川さん!」
今度は脱衣所で環の襲撃を受けた。
下着を履いていて良かった。
「今度は何だ」
「時代は夫婦別姓です!」
「……だから?」
「だから!私は吉岡環でいいです!」
「……そうか」
環の脳内を理解するのは諦めている。
彼女が楽しそうならそれでいい。
「知ってます?3年間、一緒に暮らせば夫婦です」
そんな法律は聞いたことが無い。
誰かに騙されてるな。
「あと2年半、一緒に暮らせば夫婦です」
「2年と9ヶ月だ」
「そしたら私は及川さんの妻です」
「結婚指輪は買ってやれないぞ」
「大丈夫です。あります」
そう言って彼女は胸元からネックレスに仕立てられた指輪を取り出した。
何の変哲もないシルバーリング。
随分と古いものに見えた。
「お母さんのです」
……確か環の母親は彼女が幼い頃に他界している。
形見の品か。
「これがあるからいいです」
そう笑う環が酷く可愛く思えた。
「……新しいものを買ってやる」
「いらないです」
「サイズが合うのか?その指輪」
「それがピッタリです」
「貸してみろ」
「どーしてです?」
「俺がはめてやる」
「いやです」
何故に拒絶する。
「そーいうことは結婚式でします」
「式は挙げてやれない」
「じゃあ、してからにします」
「何を」
「誓いのキス」
そう来たか。
「私が及川さんのものになった証拠にします」
「俺はお前を抱けない。そう言っただろ」
「キスだけでもダメですか」
「駄目だ」
歯止めが効かなくなる自信がある。
「環」
「はい」
「俺に男を求めるな」
「及川さんは男です」
「だから……」
「私は及川さんだけです。他の男の人はキライです」
「……そうなのか?」
男にだらしないと思っていたが。そうでもないのか。
「他の男の人はすぐに触ります。キスしたがります」
何処の野郎だ。見つけたら撃ち殺す。
「気持ち悪いです」
「……そうか」
「及川さんはいいです。触ってもキスしても。なのにしてくれないです」
環に寂しい思いをさせていた。心が痛む。
躊躇いながら。指先で環の頬に触れた。
環は少し驚いた顔をした後、柔らかく笑って俺の手に自分の手を重ねる。
少しくらいなら……。
そう思って唇を寄せた。
「……ダメです!」
頬を叩かれ、思い切り拒絶される。
どっちなんだ。したいのか、したくないのか。
「キスしたら、及川さんが及川さんじゃなくなります!」
一理ある。此処で一線を越えたら、もう元には戻れない。
「わかった。もうしない。死んでもしない」
「何でしないですか!?」
だから、どっちなんだよ。
「お前を大切に思っているからだ」
「……たいせつ?ホントです?」
「本当だ」
環が俺の顔を凝視してる。
……黙っていれば美人なのにな。残念だ。いろいろな意味で。
「及川さんはウソがヘタです」
「嘘じゃない」
「だからホントだってわかります」
環の表情が緩んだ。
「しあわせです!」
そんなに嬉しいのか?
と不思議に思うくらい、環は満面の笑みだ。
「分かったらあっちへ行ってろ」
「服を着るですか」
「当たり前だ。露出魔のお前と一緒にするな」
環は黙った。
怒ったか?さすがに。
「一緒に寝れば寒くないです。暖房もひとつでいいです。お金の節約になるですよ」
普段から環に節約しろとは言っているが。
そうじゃない。
ようやく服を着られて安堵する。
居間に戻る廊下。環は俺の後をついて来た。
パタパタとスリッパの音が響く。
「私、及川さんの大切な人です」
「そうだな」
環は俺の前に回り込んで右手を差し出した。
どうしていいか分からない俺を環が睨む。
「手、繋いでください」
言われるままに握手する。
温かく滑らかな感触。
「離さないでください」
「……無理だ。このままじゃ何も出来ない」
「そうじゃないです」
「どういう意味だ」
「私のこと、ずっと、離さないでください。お願いします」
……言われなくても。環を手放すつもりは無い。
なんて思っている自分に驚いた。
俺は他人に深入りしたことが無い。
面倒だし無意味だ。
だから誰にも近寄らせなかった。
心に踏み込まれたくなかった。
そんな俺の心に環は押し入った。
問答無用で。
……怖くなった。
この温もりを失うことが。
「どーしましたか?」
「……いや。何でもない」
「ウソです。わかります」
「本当に何でもない」
「わかります。私が可愛すぎて見とれてるですね」
環が得意気に言うから俺は苦笑した。
「そういうことにしておく」
「次の休みはデートです」
「誰とだ」
「及川さんとです。遊園地です」
「勝手に決めるな。俺にだって予定が……」
「楽しみです」
……押し切られた。仕方ない。
俺は壁のカレンダーに予定を書き込む。
遊園地か。最後に行ったのはいつだったか。
遥か昔に付き合っていた女性と行った気もする。
そして全く楽しめなかった記憶がある。
俺には鬼門だ。
だけど。環となら退屈しそうに無い。
隣で無邪気に笑う環を見て、そう確信した。
【 完 】
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