01.ヴィーナス

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01.ヴィーナス

 5年ぶりに私はこの壁の外を見た。暗闇の向こうには高層ビルが建ち並んでいるが、どれも窓ガラスが割れ崩壊し、まさに廃墟というのがぴったりだ。 5年前、まだ中学生になって間もない頃、ハデスが世界中を闊歩するようになってから私たちの平穏だった生活は終わりを告げた。両親をハデスに殺され、平和だと主張する街に保護されてからは街の外を自由に歩くことができなくなり、唯一の家族だった兄ももういない。 この世界は私にとって、生きるのには窮屈すぎた。 後ろを振り返ると、下には平和な街で大勢の人たちが生活の火を灯している。きっとその中には笑顔や人の温もりで溢れているのだろう。この壁の中で一握りの平和を手にして過ごしている。だけど今の私にはそれが魅力的には見えない。  それならばいっそ目の前の暗闇に飲み込まれたっていい。 そう思って壁の外の下を眺めた。きっと地面まで30mはある。  ここから落ちたら死ねるだろうか。全身が地面に叩きつけられ、やっぱりすごく痛いのだろうか。 私は夜風に靡かれた髪を抑え歩き出した。端まであと1歩という時、突然後ろから声をかけられた。 「俺と一緒に来ないか。」 声の方を向くと先ほどまでは誰の気配もなかったのに、私をじっと見つめる若い男が1人立っていた。夜空よりも黒い髪に、吸い込まれそうなほど透明な水色の瞳。「かっこいい」というよりも、「美しい」という言葉が似合う、そんな人だった。そしてちらっと胸元を見ると光り輝く金のバッジがついている。 それはハデス殲滅部隊、通称「ヴィーナス」のバッジだ。 そもそもヴィーナスは私たちとは遠くかけ離れた存在。一体何人の隊員がいて、どのように私たちを守っているのかもわからない。ただ私たち一般市民は何も知らずにこの壁の中で守られているだけ。 私はそんな状況が心底気食わない。まるでヴィーナスという手のひらの上で踊らされているような気がしてしまう。 かと言ってヴィーナスに入りたいかと聞かれると、到底首を縦に振る気にはなれなかった。そんな私にこの人は何の用があるというのだろう。 「そうすれば、私の願い『           』は叶いますか。」 「……………」 私は男に質問を投げかけた。しかし男は何も答えない。肯定も否定もせず、ただじっと真っ直ぐ私を見ている。 気が変わった私は一歩後ろに踏み出し、重力に身を任せた。男は走ってこちらへ向かい、私に手を伸ばす。私も男の手を掴もうと少し伸ばした。 しかし、あと少しというところでその手は届かず、男は落ちていく私を少しも表情を変えずに壁の上から見ていた。  あぁ、やっぱりこの世界はつまらない。
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