1 京川聖の章

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【 気色の悪いボール 】 投球練習はすべてナックルだった。 90キロに満たない軌道なき魔球。 それが、突然力尽きて舞い落ちる。 落ち方もいろいろ … 真っ直ぐだったり、揺れたり、曲がったり … やはりテレビでみるのとは大違い。 実際に受けるとその凄さは想像の遥か上を行く。 ナックル自体はさほど珍しい球種ではない。 大学のチームメイトにも投げるピッチャーはいたし、練習の時に遊びで投げる奴なんていくらでもいた。 当たり前だけど、トーヤさんのナックルはそれとはぜんぜん違うものだった。 トーヤさんの魔球は生命を宿している。 そして、その生命が消える。 そう表現するしかない。 ドームは驚めきに包まれたままだった。 ラインナップの発表から、スタンドのボルテージが完全に振り切っていた。 スタンドの顔、顔、顔。 皆が皆、まあるい顔をしていた。 まるで浮き浮き感が止まらない。 ここに座って眺める光景には、おれだって浮き浮きする。 このしろくまのベストメンバーはヤバい。 とにかくヤバいくらい魅力的だ。 そして … 目の前のマウンドに立っている憧れの人が、おれに向かってあの魔球が投げ込む。 夢のような映像。 それは観客だけでなく、ナインもスタッフも皆同じ思いだろう。 しろくまドームのマウンドに立つ西崎透也。 それはしろくま関係者にすれば夢のような奇跡なのかも知れない。 オープン戦、トーヤさんは一度も登板しなかった。 ずっとブルペンで調整をしていた。 この開幕戦は日本中が …世界中が待ちに待った西崎透也の日本復帰戦だ。 だから今、トーヤさんが投げる 1球1球には、強烈な熱視線がヒシヒシと感じられた。 その視線は、当然おれのキャッチングにも向けられることになる。 ここでパスボール連発、なんて姿は死んでも見せられない。 投球練習はすべてミットに収めた ……ミットのポケットには 1球も収まらなかったけど … とりあえずキャッチ出来た。 プレイボール前、サインの確認のためにトーヤさんの元へ走る。 近づくとトーヤさんのオーラ、やっぱり凄まじい。 「しろくまの人気、とんでもねーな。こりゃぁ、ワールドシリーズの雰囲気以上だわ」 トーヤさんが白い歯を見せた。 「これは全部、トーヤさんのせいですよ」 ・・・リラックスしてるなぁ 「いや、俺の人気は物珍しさ半分だろうが、さとしたちの人気は本物だな。いや異常だわ。 ……ん?さとし、なんか緊張してねーか ?」 「緊張というよりも、ビビッてます」 「ビビる ? ああ ……確かにこの雰囲気にはビビるよな」 「いや、パスボールが心配で ……」 「ん ? そんなもん出して当然だし」 「当然 ……ですか ?」 「ああ、あんな気色の悪いボール、俺だったら絶対捕れねーもん。あれだけ捕れれば充分さ。それより今日、さとしのサイン通り投げるからよろしくな。俺、割と緊張してるんで、配球考える余裕ねーし ……何ならナックル率10パーくらいでもいいぞ」 ・・・緊張って、まさか 「10%ですか ?」 「ああ、ナックル以外が日本でどれだけ通用するかも見たいし、配球は全部任せる」 ・・・全部任せるって 「こんな凄い雰囲気なんだ。まあ、とにかく野球を楽しまんと勿体ない。行こーぜ」 そう言って、トーヤさんに背中を押された。 試合開始だ。
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