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出会い
「えー、で、あるからして、まずこの問題で考えなければならないのは…」
日が暮れた後に始まる6限目の授業。蛍光灯の光が、まばらに座る生徒たちを照らしている。その虚ろな視線の先では、ふんぞり返った口調の教授が、何やら難しい話をしている。
退屈。ひたすらに退屈。こんな講義を受けている僕より、今、窓の外側に張り付いている蛾の方が、ずっと面白そうだ。中学高校と、期待という鞭で打たれ続けてきた成れの果てが、暗弱、大学生の僕である。ひたすら変わらない毎日。
今日、唯一変わったことと言えば、いつも空席の隣に座っている彼女である。話したことはないにせよ、同じ講義の生徒の顔ぶれは何となく覚えていた。だから、この子を見たとき不思議に思った。全く見覚えがなかったのである。
茶髪のショートボブに包まれた小麦色の小さな顔には、少し垂れた目がぱっちりとくっ付いていた。小柄な体に少し大きめの白いパーカーをかぶらせて、それがより彼女を愛らしく思わせた。僕は窓の外をぼんやり眺めたり、時々、彼女の方の様子をうかがったりする。彼女も他の生徒たちと同じく、全く虚ろな目で教授を見ていた。やっぱり、退屈なんだろうなあ。
「おいそこ、さっきからそっぽ向いてるが、聞いてるのか!?」
突然、低い声で教授が怒鳴った。どうしたものか、がっつりとこちらを睨んでいる。頼む、僕ではない周りの生徒だろうと一瞬願ったが、僕の近くにいるのは、隣の彼女しかいなかった。万事休すか。仕方ない、諦めよう。
「おいお前だよ!そこのボケっとしてる奴!」
「す、すみま…」
「ワァン!!!!!」
一瞬、時間が止まったような気がした。実際、この講義室にいる全員がピクリとも動かなかった。やっと時間が動き出したころには、この講義室にいる全員の視線が集まっていた。
そう、僕の隣に座る、小刻みに震えてうつむく彼女に。流石の教授も困惑して固まっていたが、しばらくして、ようやく控え目に訊いた。
「だ、大丈夫か?具合悪いなら帰っていいぞ?」
それに対して彼女は震えたまま答えた。
「あの、いえ、タンス、じゃなくて、机の角に小指をぶつけただけです。ごめんなさい」
「そ、そうか、ならいいが…」
結局、そのまま僕は怒られないまま講義は続けられた。明らかに、彼女は机に小指なんてぶつけていなかった。彼女が履いているのは厚底のブーツだった。もしかして、僕を助けてくれたんじゃないだろうか。しかし、じゃあ一体何故。面識も全くない僕を?え、惚れられちゃいました?
「す、すみません。大丈夫でしたか?」
講義が終わって続々と講義室を出ていく生徒たちを尻目に、僕は思い切って彼女に話しかけてみた。彼女は一瞬困惑していたが、すぐに赤面して顔を伏せてしまった。
「え、ええ、大丈夫です。多分骨は折れてはない、ですから」
「えっと、でもそれブーツじゃ…?」
「あの、それはえっと…」
しまった。気持ちの勢いに任せてつい言ってしまった。初対面の女子大生の事情に茶々を入れるなんて、いけないことだとすぐに後悔して取り消した。
「ご、ごめんなさい何でもないです!大丈夫でしたらよかったです。お大事にしてください」
そう言って、そそくさと彼女の後ろを通る。講義室を出る時、ちらっと彼女と目が合ったような気がした。
大学の購買で軽食を買った後で、帰る途中、街頭に照らされて、門の前で立ち尽くす彼女を見た。誰か待っているのかとも思ったが、六限も終わってしばらく経っているので、キャンパスに人はほとんどいなかった。それに、さっきから妙に視線を感じる…気がする。都合の良い思い込みかもしれないが、この際どうにでもなれと、結局話しかけた。
「あの、本当に迷惑だとは思うんですが、何かありましたか?」
「その、実は、住んでいるアパートの場所を忘れてしまって」
「え?」
「いや、だからその…」
「え…、えっと、スマホとか持ってますか?」
「ああスマホですか。なるほど。じゃなくて、それは、お、落としてしまって」
家の場所を忘れるって一体どういうことだろう。それに、スマホで何故か納得していた。本当に意味が分からない。しかし、僕には先ほどの反省がある。深く突っ込まずに、自分ができることをしよう。
「そうですか、じゃあ僕のスマホで…アパートの名前とか覚えてます?」
「えっと…あっ、はい。た、確か…」
マップ検索で出てきた道を辿って歩いていくと、ものの五分ほどであっさり着いてしまった。帰る途中、世間話をいくつかしたが、やっぱり変な所が多くあった。出身は僕と同じでこの辺りだと言っていたが、どの店の名前を出しても全く知らないようだったし、名前を訊いたら「えっと、なんだっけ。佐藤ヒワです」と言っていたが、人が自分の名前を答えるときに果たして、なんだっけ、なんて前置きが付くだろうか。でもやっぱり、僕は突っ込むのを我慢した。二度同じ轍を踏むまいと、ずっと心に言い聞かせていた。
彼女の部屋のドアの前まで来て別れようとしたとき、彼女がリュックの中からタッパーを取り出して言った。
「あの、本当にありがとうございました。お礼にこれあげます。今ちょっと食べて、もしお好きでしたら全部貰ってください。私のお気に入りなんです」
気になっている子からお礼されるなんて、受け取るしかないだろう。
「いいんですか。ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えさせていただきます」
タッパーには、茶色い固い粒が沢山入っていた。クッキーか何かだろうか。蓋を開けると何やら穀物のような香りがした。形状と言い匂いと言い、変わったクッキーもあるもんだ。そうして一粒を口に運んだ。
「あッ…!!!」
彼女がそういって青ざめたのは、僕がその一粒を噛んだ後だった。瞬間、口いっぱいに広がる草の香り。一秒と耐えられなかった。
「ケホッ…!ケホッ…!」
思わずむせてしまってから、我に返って顔を上げると、能面の小面ように白くなったヒワがいた。
「す、すみません!そういうつもりじゃなくて、美味しかったんだけど、ちょっと、変な所に入ってしまって…!」
「あッ…ああッ…」
「ほんとにすみません!あ、あの、これなんていうお菓子なんですか!?僕も気に入ったので買ってみたいなと思って…!」
ヒワはしばらくうつむいて動かなかったが、ゆっくりと僕の手からタッパーを取ってしまって、ドアに額を当てて、そのまま呟いた。
「…ドッグフードです」
「…はい?????」
「だから、その」
振り向いた彼女の眼は、涙こそ出ていないものの、もうほとんど泣いていた。
「一回家に入りませんか?」
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