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「雨が上がりそうですわ」
窓ガラス越しに外の景色を眺めていた《茶房あまね》の店主は、どこか寂しそうに呟いた。それは独り言のようでもあり、僕に言っているようでもあった。
「そろそろご自分の居場所へお帰りになってはいかがでしょう。頃合いですわ」
僕の向かいの席に掛かったビニール傘には、柄の部分に《茶房あまね》というロゴが入っていた。
「あなたは誰ですか?」
「僕は……藤枝です」
「梅宮の奥様と離婚なさったこと、後悔していらっしゃる?」
「いいえ、後悔はしていません」
「だって結局あたくしは、あなたと結婚しないまま、あなたを残して遠いお空へ逝ってしまったんですのよ」
あまね……かつてレインと呼ばれていた女性は僕の向かいの席に腰を下ろして、置かれていたアッサムに口をつけた。
「僕はずっと、君にこうやって紅茶を淹れて貰いたかった」
「頑なにストレートを飲まないのは何故ですの?」
「ずっとミルクティーばかりを選ぶと、君がムキになってストレートティーを勧める。それが楽しくて」
「まあ、憎らしい」
アッサムの良い香りがした。
あまねは静かに笑って、僕に手を伸ばした。
「藤枝さん、この店に《あまね》とつけてくれてありがとうございます。あたくしはそれで充分。きっと、忘れないもの」
どうかあたくしを忘れないで、覚えていて。あまねの声が僕の耳に残った。
これは、雨の記憶だ。
逃げた罪悪感に苛まれ、あまねを忘れることが出来ずに苦しみ、しばらくして離婚を選んだ僕とあまねは晴れて恋人同士となった。けれどほどなくしてあまねは僕を残し、この世を去った。雨の日の事故だ。人の命とは案外呆気ないものなのだと、驚愕したものだ。
一人残された僕は《茶房あまね》を開いた。長くここで過ごしてきたが、その後誰とも結婚は選ばなかった。他人からしたら人生を棒に振った、馬鹿な男に見えるかもしれない。
これは今際の際に見る、儚くも幸せな夢なのだろうか。
年老いて雨音の記憶もおぼろげになってきてしまった僕に見せる、最後の雨の記憶なのだろうか。
とても心地よい雨音は少しずつ小さくなり、やがて静かになった。
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