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2 雨の記憶 remembrance
「……枝さん、藤枝さん。紅茶が冷めてしまいますわ」
ふと顔を上げると、あまねが僕のいるテーブルの横に立っていた。何度か呼び掛けられていたようだったが、本の世界に没入していたのか、なかなか気づけなかった。いつからそこにあったのか、テーブルに置かれたアッサムミルクティーから優しい香りがしている。カップの他にはクッキーを数枚乗せた小皿が置かれていた。これはサービスだろうか。
「ああ……ありがとうございます」
「随分熱心にお読みになっておりましたのね。――『雨の記憶』、恋愛小説ですね」
「ええ、つい夢中になってしまいました」
僕は『雨の記憶』に栞紐を挟み、一旦閉じる。雨音がふと遠ざかった気がした。
「どうぞごゆっくりなさってくださいまし」
あまねは丁寧に一礼して僕から離れた。店を見回すと、いつの間にか客席には数名の客が座っており、さわさわした人の気配が急に耳に入ってくる。
あまねは他の客にも同じようにカップとクッキーの小皿を運んでいたが、それが終わるとカウンターの椅子にちょこんと腰を下ろした。
雨音と混じり合う、微かなBGMが心地よい。僕はアッサムミルクティーを口に運びながら、先ほど一旦閉じてしまった『雨の記憶』を再び読み始めた。雨が止むまでに読み終わりそうにないが、一見さんの僕が本を借りていくわけにもいかない。とりあえず区切りの良いところまで読んでしまいたかった。
『雨の記憶』は、レインという一人の女性の恋物語だ。しょせんフィクションであり娯楽小説でしかないが、僕は彼女が最後にどうなるのか、とても気になっていた。レインが僕にとって、魅力的な女性に映ったからだろうか。過激な描写は一切なかったが、僕の心はどうしてか揺さぶられた。
やがてアッサムミルクティーを最後の一滴まで飲み干した僕は、カップをテーブルに置いた。しかし雨が止む気配はなく、本もまだ物語の途中だ。二杯目を頼もうか帰ろうかと悩み店内に視線を彷徨わせるが、先程あまねが腰を下ろしたカウンターの椅子には誰もいない。
「お待たせ、藤枝さん」
急に声を掛けられて、僕は背後を振り向いた。そこにいたのは『雨の記憶』に出てくる女性、レインだった。挿絵や写真があったわけでもないのに、僕はそれがレインであると確信していた。
そうだ。僕はレインとこの店で待ち合わせをしていたのだった。
「遅かったね、道が混んでいたの?」
「雨に降られてしまって。途中で傘を買っていたのよ。張り切るといつも雨に降られるわ。ほら見て、少し濡れてしまった」
「風邪をひいてしまうよ」
僕はポケットからハンカチを出してレインに手渡した。
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